06 グリード再び

 昔、ペット禁止ならば女子高生を飼えばよくないかと言って幼馴染の女に顰蹙を買ったことがある。
  猫のかわりに女の子が家にいたら夢のようだと思っていた社会人のなりたての頃、ストリートチルドレンの女の子といっしょに暮らしだした。それがネフリータだが、よもや捨て猫が住み着くように男が住み着くことがあるとは思ってもいなかった。
  キリシュはこんな何もない家に遊びにきて楽しいのだろうか。しかもお友達である黒狸はほとんど仕事をしているというのに。
「黒狸の家って食べ物はたくさんあるくせに他のものほとんどないな」
  そう言うキリシュは黒狸宅のシャワーを浴びて、黒狸のシャツを着て、黒狸のさっき焼いたシナモンクッキーをばりばり食べている。そんな日もあった。
  自宅の風景に馴染むまでがやたら早かった。キリシュは当たり前のように黒狸の家によく遊びにくる。
  キリシュはよく笑い、よく歌い、だいたい暇だと「なあ、黒狸」は口癖だった。美味いものを食べさせれば幸せそうな顔をするし、何か親切にしてあげれば必ず最後に「ありがとう」がもらえた。
  サービスし甲斐のある男だった。
  帰り道にあんまんを売る屋台を見つけたときに、一つでなく二つは買うようになったのは八月が終わって九月になった始めの頃だ。
  片手には仕事用の鞄、もう片手には屋台で買ったソーセージとあんまん。
  買いすぎたから出来れば今日か明日にキリシュが来てくれるとありがたいのだが、そうでなかったとしたら酒のつまみにしてしまうしかなさそうだ。
  家に煙草はまだあっただろうか。この時間近所のタバコ屋は閉まっているはずだから、コンビニまで買いに行かなくてはならない。それは面倒だと思って朝まで禁煙しておくかと思った矢先、耳元で声がした。
「近づくなと言ったはずだ」
  聞き覚えのある声だった。というよりも、その声は最近よく聞くキリシュの声と同じものだ。
  ただしキリシュと声は同じでも、気配と声色は全然違った。
  怒りを含んだような、絡みつくような声にゆっくり振り返るとキリシュの姿をした誰か――おそらくは映画館で黒狸を見逃してくれたキリシュの別人格、グリードがいた。
「よ、よぉ。グリード……だっけ?」
  うっすらと愛想笑いを浮かべてみるものの、グリードがこちらに微笑んでくれるような様子はなかった。
「なに、ほっとした顔してんだよ。オレは、キリシュに近づくなって言ったはずだ。つまり、手をだしたら殺すぞって言ったんだけどなぁ?」
  グリードの拳に力が篭るのがわかり、黒狸は思わず後退った。
「俺を殺すために?」
  グリードはかぶりを振ると、低く「ちがう」と呟く。
「殺してやりたいところだが、友達をころすわけにもいかないだろ? タダでさえ、気を許せるような人間少ないんだ。嘘でも、突然なくしたらかわいそうだろう?」
  安堵していいやら、友達でなくなった途端終わりのような言い草に油断はできないやら。
  そのとき、グリードのお腹が小さく音を立てた。
「腹が減ったな。お前の持ってるもん、なんだ?」
  グリードに言われて、自分の手に持っていた紙袋を見下ろす。
「あんまんだけど」
「寄越せよ。お友達だろ」
「食ってもいいけれど何の嫌味だよ?」
  黒狸は紙袋をあさって奥からあんまんを一つ取り出すとグリードに渡した。
  グリードはあんまんに噛み付くと、もぐもぐと顎を動かしながら黒狸のマンションのほうへ向かった。
「泊まる気か?」
「泊まるって言って泊める気かよ? お友達だから怖くないのか? お前を殺しかけた男だぞ」
  たしかにそうだが、術は強力にかけたつもりだ。相当意思の強い人間、もしくは弱い人間でもない限り簡単には解けないだろう。
  グリードは肩をすくめる。
「嘘はやっぱり嘘だろ。キリシュがお前のことを助けたことがあって、以来お友達というのは信じ込んだとしても、それは結局嘘だ。キリシュがお前を殺そうとしたのが真実だ。そうだろ?」
「そうだな」
「貫けるのか? その嘘を」
  グリードの言いたいことはわかる。異能と違って嘘は重ねるうちに無理が生じる。黒狸がキリシュは友達だと信じられなくなったら術は解けてキリシュは元の状態に戻る。
「だからこそ、保険をかけてるんだろ? 本当に友達になっちまえばこっちのものだ」
「言ったな。その心に間違いはないか?」
「ねえよ」
  即答だった。グリードがこちらを睨みつけて、あんまんを口に放り込む。
「だったら責任とれよ。言葉にも、キリシュにも」
  そうとだけ言い残し、グリードは今きた道を帰っていった。気配が消えるのが早かった気がするが、真夜中だしそんなもんだろうと黒狸は考えた。
――貫けるのか? その嘘を。
(信じてるよ。友達になれるって。嘘から真実が生まれることもあるってさ)
  黒狸は心中独白すると、そのままグリードの消えた道を見つめて、ひとつ減ったあんまんのぬくもり感じながら踵を返した。
  さっきまであったぬくもりが今はないってこういうことかもな。
  あんまんに感傷的になるつもりはないが、いつかは消えたぬくもりがたくさんあった。
  ぬくもりが消えるたびに、次の体温を探した。探して見つけて、そしてまた消えた。いつになったら真実を見つけられるのか途方に暮れても、人のぬくもりを忘れることも永遠の愛を探すことも諦められなかった。
  また消えた、まだ見つからない。
  でもまた手に入れた、いつか見つかるだろう。
  そんな気持ちでいつも望んできた。恋した相手が消えて、今度はキリシュが現れた。
  さすがに男に恋をするつもりなんてないが、これは何かの縁だと感じる。
――言ったな。その心に間違いはないか?
「ねえよ」
  もう一度そう呟くと、黒狸はエレベーターのボタンを押した。