04 青い猫
女子高生を飼いたいと思うようになった社会人になる前は、普通に猫が欲しいどこにでもいる学生だった。犬に芸を仕込むのは好きじゃあないし、猫が気ままに歩いている姿を見るのが好きだった。
「どんな猫が欲しかったの?」
とお金持ちの女性が猫をあげようと言ってくれたこともあるが、マンションがペット禁止であるという理由で断った。
それに欲しかった猫はお話の中にしかいないのだ。小学生のときに読んだ賢い賢い青い猫にずっと憧れていた。
「何だよ、じっと見て」
そんなことを思い出したのは、キリシュがガラスコップのミルクを舌でぴちゃぴちゃと猫のように飲んでいたからだが。
「猫みたいだなって思って」
「コップ咥えるの好きじゃなくてさ」
そういうものなのか。キリシュは口が小さいからもしかしたらそれが原因かもしれない。
なんだかキリシュの姿が青い猫と重なり、黒狸は思わず言った。
「そういや青い猫って話知ってるか? 小学生の教科書にあったやつ」
「知らない。なに、それ?」
あれはシエルロア市民の小学生なら誰でも知っていると思ったが、もしかしたらキリシュの時代の教科書には載っていないのだろうか。
「『青い猫と奥様』って話知らないのか。雑種の汚い猫を奥様が拾ってくるんだよ。あまりに賢い猫なんだけど、奥様は唯一その猫の汚い毛色が好きになれなかった。だから青く染めちゃうのな。そしたら近所の人は奥様はひどいって言うし、旦那も『猫が可哀想だ』って言うし。でも奥様はそれが猫のためだと思っていた。猫は染め粉のついた毛を舐めすぎてある日死んじゃうんだけれどもな」
「うわ、その可哀想だな」
キリシュは例に洩れず猫が可哀想だという判断をした。
なんだか黒狸は少し気持ちが曇ったのが自分でもわかった。
「でも、奥さんは猫が死んだことをすっげ悲しんだし、猫のためだと思ってやったんだよな」
「猫のためになるわけがないだろ。実際死んじゃったんだし」
たしかに猫の奥様は馬鹿だったと黒狸も思うわけだが、ここで食い下がっても仕方がないとわかっていたが、黒狸は言った。
「奥様も可哀想だろ。猫が死んだ上に周りからさんざん言われてさ、猫にそんなことできちゃった馬鹿さ加減も」
「それ、可哀想って言うのは変だよ」
キリシュは飲み終わったガラスコップをテーブルに置くと、風呂上がりで髪の毛を拭いている黒狸をじっと見つめてきた。
あまりにもじっと見つめられたので、思わず視線をまっすぐ返したら、キリシュは視線をふいにずらした。
自分を咎めるような視線だと感じたのだが、何が咎められる原因なのか黒狸にはわからない。
「あのさぁ……何か俺、変なこと言ったかな?」
黒狸は様子を窺うようにキリシュに尋ねる。キリシュは「それはさ、」と一言、そのあとに間を置いて、続きを言った。
「嫌いって言うんだよ」
黒狸は目をまばたきさせて、首をかしげた。
「だって、黒狸の顔とか口調とか、可哀想って言ってるくせに全然そう思ってない。馬鹿だなって思ってるし、奥様に同情なんて全然してないだろ」
キリシュに言われて、そういえばそうだなあと黒狸はぼんやり考えた。
たしかに奥様を可哀想と思ったことはあっても、良い行いだったと思ったことは一度もないし、奥様に特別愛しさを感じたこともなかった。
「でも……」
黒狸は言い訳じみた台詞を呟き、そして、でも、なんだろう? と自分に聞き返した。
「でも?」
キリシュが逆に聞き返してくる。続きを言ったほうがよさそうだった。
「嫌いって言葉、好きじゃないんだ」
「なんで?」
「だって……」
また口ごもる。でも、だの、だって、だの、大の大人が口に出すべき単語ではないと知っている。だけどどうしても口をついて出てくる。あの小学生の時の感情が黒狸の胸まで登ってきて、喉から言葉を出しかけて、また詰まった。
「だって?」
キリシュはもう一度、聞き返してくる。黒狸は深呼吸をゆっくりして、こんなことを言ったら笑われるだろうなと思いながら言った。
「小学生のときの話だよ。この猫の話が授業で出るよりもずっとずっと前からだけど。気づいたらみんな、嫌いなものを見つけるほうが得意になっていたんだ。あいつのあの言葉が気に入らないとか、あの食物は不味いとか、仲良く遊びながらその実陰口を叩き合う女の子たちとかな。そういうの、全部みんな好きじゃあなかった。嫌いなんて一切共有したくなかった。それが理由」
まくしたてるように全部言ったあと、胸のあたりにあったつっかえたような痛みが少しだけ楽になるのを感じた。だけど心臓のあたりでまだつっかえている。
キリシュは黒狸の様子が少しおかしいことに気づいているのかいないのか、一気にしゃべった黒狸をじっと見つめて
「それが理由? 嫌いって言うのを禁止している」
「悪いか?」
やっぱり大人げないよなあと思う反面、嫌悪なんていらないと、本気で感じてしまうのだ。それこそ好きになれない。
黒狸は自分の視線がさまようのがわかった。キリシュに笑われるのは恥ずかしいと感じた。
しかしキリシュは馬鹿にする様子でもなく、「馬鹿だな」と言った。
「同じものを嫌いだからといって、そいつといっしょになったわけじゃあないだろ?」
キリシュの視線は咎めるような辛辣さも、嘲りを含んだ笑みも浮かんではいなかった。
心配しているとも違った。本当に素朴な表情で、彼は黒狸を「馬鹿だね」と言った。
「結局、黒狸はその同級生たちの態度が嫌いだったんだろ? イヤだった。違うのか?」
黒狸は黙ったまま、頭の中をゆっくりと流れていく当時の残酷な小学生たちの顔をずっと追った。
あいつのこと、嫌いだったのか。こいつのこの言葉、イヤだったのか。そんな風にひとつひとつ、自分の中で好きじゃないと感じ、胃の中につっかえたような違和感を無理やりねじ伏せた過去を解放した。
「俺さ、すっげ今自分のこと馬鹿だなーって思った」
黒狸はぽつりと呟いた。嫌いもイヤも、封じる必要なんてなかった。ただ自分を引き裂く感情をこれはイヤだ、いらないと捨てればよかっただけなのに、そんなことに気づくのに三十年もかかったのか。
「黒狸ってたまに面倒くさいよな」
キリシュはやれやれという表情でそう言うと、疲れたとばかりに欠伸をして布団を敷きだした。
「黒狸、寝間着貸して」
「どうぞ」
たまたま自分のほうがタンスに近かったので、中から部屋着を取り出してキリシュのほうに放り投げる。キリシュは着ていた服をぽいぽいと投げ捨てて、着替え出した。
ふとキリシュがこちらに背中を向けたので、よくよく見たことのなかった彼の背中が目に入った。
「キーリ」
キリシュが振り返る。彼の背中にある、昔何かで斬りつけられたような古傷が視界から外れた。
その傷、どうしたの? と聞いていいのかがわからなかった。古かったし、ほじくっていい過去とは限らない。
「あのな……俺、今思ったんだ。笑わず聞いてくれるか?」
シラフで言うのが恥ずかしくて思わず薄ら笑いを浮かべてしまったので、キリシュが怪訝な表情をつくる。
「キーリに傷つけた奴は嫌いだなって思った」
キリシュは黒狸の言いたいことがわかっていないようだった。そしてふいに、何か思い当たったような顔をして、照れたように笑った。
「心配してくれてるんだな。ありがとう」
その言葉に黒狸は、ああそうか。こういうときは傷つけた奴が許せないと言うよりも、心配しているとストレートに言ったほうがいいのかと気づいた。
なんだかややこしい回路を自分でつくっていたのだなあと思ったが、黒狸自身どうすればストレートに表現できるのかがよくわかっていない。
「あと猫はやっぱり可哀想だったな。奥様のやったことはやっぱりイヤだったわ」
「そうだろ。黒狸の顔がそう言ってた」
キリシュはおかしそうに笑って、そして歯を磨きにいってしまった。
黒狸はキリシュがいなくなったあとも、キリシュが立っていたところを見つめていた。
この感情をどう言葉に表せばいいのかわからない。
素直に感動したのだ。キリシュと会えたことと、自分の中のわだかまりが溶けたこと、そして今こうして、殺しあう関係だった奴と打ち解けているという事実に。
(ああ、俺はキリシュのこと好きなのか)
好きがもっとシンプルになった気がした。すとんと心に馴染む心地良い好きの感情が久しぶりで、思わずしばらく立ち尽くしていたくらいだ。
「キーリ、あのさあ」
黒狸はキリシュが寝る前に、戻ってきたところを見計らい、思い切って切り出してみた。
「もし、泊まるところが他にないならば……しばらくここに寝泊まりしとかないか? ほら、久しぶりに会ったんだし、なんかの縁だと思うんだ。俺の家に遊びに来る時以外、野宿してるんだろ?」
キリシュは何が言いたいのだろうという不思議そうな顔をした。
「つまり、何が言いたいわけ?」
キリシュは意図が掴めないと首をかしげる。
「泊まるところがなくても困ってないよ。黒狸のところには遊びにきているだけだし」
「え……」
言葉に詰まったのは黒狸のほうだ。
「住所ないと仕事見つけるの大変だし」
「日雇いだとそこまでうるさくないよ。定職につくつもりまだないし」
「あと暴漢とかタチが悪いのもいるし」
「たいていそういうのってオレより弱いし、そういうのって分が悪いと思ったら逃げるよ」
「飯は? 風呂は?」
「親切な人はいるから。あと噴水は夏気持ちがいいし」
「……」
「黒狸? だからオレ、困ってないよ」
はつらつと笑顔を作られて困った表情になったのは黒狸のほうだ。
「黒狸? 何かオレ、悪いこと言ったのか」
「いや、そのう……俺が」
「ん?」
キリシュは黒狸が何が言いたいのかわからないと見つめる。
「俺が、寂しいんだよ。最近仕事ばっかで友達とも遊んでないし、家一人だし、猫もいなけりゃ彼女もいないし!」
「仕事があって友達もいて家もあるのか! 黒狸はなんだって持ってるんだな」
キリシュの言葉が心に痛い。住所不定無職の青年がすごく輝いて見えるのに自分が薄汚れて見えた。
「それで、黒狸が彼女も猫もいないから、オレが居てくれたらなって思ってるってとっていいのか?」
「そうです」
「寂しかったんだな! 黒狸」
「はい、そうです」
「大丈夫だぞ。オレが居てやるからな」
キリシュが黒狸の頭を撫で撫でしてにやりと笑った。
「寂しがり屋の黒狸クン、夜は一人で寝れるの? トイレ一人で行ける? 手繋いで寝てあげようか」
黒狸の肩やら胸板やらをべたべたと触りながら、キリシュはまるで寂しがり屋の女を相手にしているように扇情的な表情で笑った。
先程までの羞恥心が吹き飛び、軽く額に青筋が浮いたのが自分でもわかる。
「いらねえよ!」
「あはは」
キリシュが思い切り笑って、ドン、と黒狸の胸を押すとニヤリと笑った。
「いいよ。黒狸といっしょにいるの楽しいし」
ああ、やっぱりからかわれている。年下にからかわれている。
こんなはずじゃなかったのにと思いながら、黒狸はぼそぼそと「俺もキーリといっしょに居るの楽しいよ」と言った。
そうして奇妙な同居が始まったのだ。
|