08 スパロー登場

 キリシュが黒狸の家に住むようになって、食材が切れる日には残業はせずに仕事を切り上げて家に帰る習慣ができた。
  その時刻だとまだ市場がやっているようで、黒狸はその日美味しそうなキウイとバナナ、そして新鮮なレバーを選んでもらってから家に帰った。
  市場の空気が好きなのは昔からだが、最近は食材を選ぶときにただ美味しそうかどうかという問い以外にもう一つ加わってくるようになった。
  つまり、キリシュがこれを買って帰ったら喜びそうかどうかということだ。
  キリシュは黒狸とは違う料理をよく作ってくれる。炒め物、創作料理、洋食中心の黒狸に対してスタンダードに美味しく、煮たり蒸したり、ちょっと面倒だと感じるとやりたくなくなる料理をキリシュは暇にまかせて作ってくれた。
  しかし、家に帰るのが遅いとキリシュは先にごはんを食べているようになり、そのうち玄関に鍵をかけてベランダから出入りするようになったみたいだ。
  自宅に泥棒が入っていないところをみると鍵は閉まっていたようだ。ということはわかるが、明らかにキリシュが黒狸の帰ってくる深夜ギリギリに帰ってきたような形跡がわかることもあった。
  一つ、黒狸の夕飯がない。二つ、食器が使われた形跡がない。三つ、キリシュのシャツから女物の香水や口紅のあとを見つける。
  小うるさい女と同じように咎めることはしたくないが、さすがに夜遊びを始めた頃には「俺は仕事帰りなんですが」という気持ちも少しあった。

 話を戻そう。キウイとバナナ、そしてレバーを買って帰った夜だった。
(ついにうちの嫁は自宅に男を上げました。)
  間抜けな夫モードで心中呟き、あばずれなキリシュさんが上げた見知らぬ誰かの笑い声が聞こえるダイニングをじっと見つめる。
「キーリ、ただいまー」
  なるべく笑顔を作ろうとしたが、うまくいったような気がしなかった。
「あ、おかえり」
  キッチンを見ると夕飯ができているような気配はなかった。おかえりと言ったキリシュと、その客人を見る。黒い猫耳の獣人だ。
「おかえり、同居人さん」
「ただいま。キーリのお友達さん」
  居るんじゃないか。友達いないとか言っておいて。
  黒狸顔負けのちゃらちゃらした軟派な空気をまとう獣人を見て、思わず胃の頭にもやもやしたものが広がる。
「キーリがお友達を連れてくるなんて珍しいなあ。どうも、うちのキーリがいつもお世話になっています」
  笑顔を無理やりつくってテーブルにキウイを置く。レバーを冷蔵庫に仕舞っている間もキリシュが友達と会話をしている。
  まあいいのだけれども。友達は男でも女でも、友達でしかない。あの口紅のをシャツにつけた女性が誰であれ、キリシュが何人の女と遊んでいようが、もしくは男と遊んでいようが、自宅に泥棒が入らないように対策してあるならばなんの問題もないはずなのだが。
「キーリ、ごはんは?」
「あー、今日作ってないや」
  そして泊まっていいし、居てくださいとお願いしたのも自分のはずなのに何をこんなに腹を立てているのだ。
  キリシュのお友達がここで消費したのは楽しい時間とコーヒー一杯のはずだ。そんなに損害はない。茶さじ一杯のインスタントコーヒーに腹を立てるような男であってはいけないと肝に命じるも、何かが腑に落ちない。
「今から作ろうか。お友達食べてく?」
「あ、おれは帰るわ」
  お友達は帰るらしい。
「じゃあな。スパロー」
「じゃあなキリシュ。また近いうちに」
  なるほど、また、そして近いうちに。けっこう仲がよさそうだなあと聞き耳を立てている自分がいた。
  バタンと玄関で扉の閉まる音。
  楽しかった空気を纏って笑顔で戻ってくるキリシュと視線がかち合う。
「ん? あいつスパローって言うんだ」
「俺は黒狸ですよ」
「何言ってるんだよ。知ってるよそんなこと」
「俺も知ってます。自分ですから」
  わけのわからないことを口走ってるところを見ると相当自分でも頭がおかしくなっていることがわかる。
「なあ、スパローてギルドの友達?」
「ううん。寝るところなくて困ってたらあったかいベッド貸してくれて、あと仕事も仲介してくれてさ」
「それってなんかこー、普通の仕事?」
「普通……じゃないかな」
  キリシュはぽつりと呟いて肩をこきりと鳴らす。コーヒーカップを洗うキリシュをじっと見つめてしまった。
「スパローとはどこまでいったの?」
「ん? 綱渡りぐらいはしたかな」
「危ない関係ですね」
「スパローがいるから平気だけど」
  唇がおかしな笑みを作ったような気がした。たぶんミルク味のソフトキャンディーについたペコちゃんみたいな顔。
「なあ黒狸、今日ちょっと言ってることがおかしいけれど熱でもあるんじゃないか?」
  妙な笑みを浮かべてるところで、キリシュに声をかけられてしらふに戻る。顔をひきしめようと思った。
「ちょっと、こっち向いて?」
  きりっと真剣な顔を向けてみる。俺は真面目ですという意思表示も含めて。
  そしたらキリシュの顔がこちらに近づいてきた。何事かと思ったら、額と額がぶつかる。
「やっぱりちょっと熱いぞ。仕事のしすぎでオーバーヒート?」
「ははは。仕事のしすぎかな」
  なんで体が熱いのかなんて知りたくもない。
「寝てろって。お粥作るし」
「じゃあ生姜粥よろしく」
「作ったことない。生姜いれるだけ?」
「ちょこっとミルク最後に入れてだな、まろやかにするといい。魚醤とホタテパウダーもよろしく」
  お粥は好きだから熱だろうがなんだろうが、楽のできる方向に逃げようと思った。キリシュは米を鍋に入れて水で煮る準備をしている。
  そういえばスパローがキリシュのなんであれ、ただの友達の自分に何も咎めることなどできないのだと思った。
  そしてその半歩遅れたあとに、黒狸は愕然とする。
「顔色悪いぞ? 大丈夫か、黒狸」
  キリシュの声はスルーした。ただの友達も何も、何を咎めるも、キリシュにとっての何者になりたいと言うつもりなのだろう。
  たまに這い上がってくる感覚の正体を知らないわけではない。だけどそれだけは、認めたら駄目だ。口にしたら最後認識してしまう。
「俺、熱暴走してるみたいだから寝るわ」
「そうしろよ」
  男に嫉妬したり、関係探ったり、相手の言葉ひとつで浮き沈みしたり、これじゃまるでキリシュを女だと思っているみたいじゃあないか。
  ベッドに倒れこんでブランケットを頭にかぶった。
(ああ、死んじゃいたい)
  恥ずかしくて死にたい。実際に死にたくはなくても恥ずかしさでベランダから飛び降りたい気分だった。