09 アマリネ・リリーザ

「明日、ちょっといないから」
  それは黒狸が自分の中にあるこぱずっかしい上にむず痒い感覚と戦ってる最中の週に起きた。
  キリシュが一日留守にすると言い出した。
「友達の家にでも泊まるのか?」
「何言ってるんだよ。友達は黒狸だけだし」
  あれ? じゃあスパローは恋人か何かですかと思っていると、続きがあった。
「学生時代仲のよかったおねーさんの家に泊まってくるだけ」
「それ、もちろん……」
  言葉を濁したが、たぶん元恋人か、元愛人かそんなところだろう。
「アマリネさんのこと邪推すんなよ? 黒狸」
  キリシュがちょっと眉を寄せてそう言う。黒狸はキリシュの元恋人の名前を聞いたときに、もう一度聞き返してしまった。
「そいつ、アマリネって言うのか?」
「知ってるの?」
「アマリネ=リリーザ。今、31歳か?」
「たぶんそれくらい」
  これは一波乱起きそうな気がする。主に自分の心のなかが台風警報だ。
  キリシュはどうやら、自分の小学生のときの初恋の相手と恋仲だったことがあるようだ。甘酸っぱくもほろ苦い思い出を思い起こすより先に思わず確認してしまった。
「キーリって今25歳だよな? アマリネが31歳。いくつのとき知り合ったの?」
「おい。下世話な想像よせ」
「学生時代って軍学校だろ? リネはどう考えても未成年のお前と寝てるだろ!? うわーうわー」
「合意だ。合意だから!」
  初恋の人よさようなら。あなたは変わってしまった。そんなセンチメンタルな感情よりも嫌悪にも近い苛つきが湧いてきた。
「連れて行け。俺をリネのところ連れてけ!」
「ただの友達を元彼女のところになんで連れて行かなきゃいけないんだよ!?」
「残念だったな。俺もそいつと元恋仲だ。ただし片思いだったけど!」

 冷静に考えてみれば、あのときどうしてアマリネがキリシュを誘惑したという下世話な想像が働いたのだろう。
  もしかしたらキリシュがアマリネを誘惑したという可能性を一切省みなかった。
  そして嫌々承諾したキリシュといっしょにアマリネのアパルトメントを訪問したのだ。
  ブザーを押すと、彼女は待っていたとばかりにすぐに扉を開けてくれた。
  笑顔で出迎えてくれた彼女の表情は、黒狸の顔を見た瞬間にすぐに「誰だ?」という表情に変わる。
「リネー、覚えてるか? 俺だよ」
  笑顔を作って言う黒狸の横にいるキリシュをちらりとアマリネは見る。そして黒狸をもう一度見る。
  アマリネの異能は小学生のときと変わっていないのであれば、なんとなく想像がついた。心の中で何度か唱える。
  えふゆーしーけー FUCK YOU アマリネ。繰り返し、繰り返し。
「知らないわ。あなたみたいな汚れた男」
  吐き捨てるようにアマリネはそう言って、キリシュの手を素早く引いて玄関の扉を閉めてしまった。
「おい!」
  取り残された黒狸は何度もブザーを押すが、出てくる気配はない。
「ざけんなクソアマ! お前が未成年に手を出したって怪文書出すぞ」
  扉の前で怒鳴ると、アマリネの冷ややかな声が扉越しに聞こえる。
「相変わらず薄汚れたチンピラ以下ね。祥黒狸。未成年? 真剣な恋に年齢が関係あるとしたら戸籍の問題だけでしょ」
「恋で正当化すんな!」
「あーら、何を怒ってるのかしらね。まるでヤクザ」
「弊社の都合としましてもお預かりしているお友達をあなたのような女性におあずけするのはどうかと思いまして、つまりそういう理由でついてきたんですよ開けてくださいませ」
「あなたはいりません」
  キャッチセールスを断るときのように、けっこうとも間に合ってますとも言わずにきっちりいらないと言われてしまった。
「くそっ!」
  まるでチンピラ。まるでヤクザ。アマリネが言ったとおりだと自分でもわかる低級悪役っぷりである。
  キリシュがアマリネと積もる話をしている間、完璧に外で仲間はずれのようだ。
  煙草を探して火をつける。視線を感じたような気がして、インターホンのカメラに向かって「覚えてろよ」と呟いてみる。
  しばらくして、扉が開いた。
「キリシュくんが可哀想だって言うから入れてあげるけれども、思い上がらないでちょうだい」
「はいはい」
  アマリネの家の中はシンプルで女性らしいインテリアだと感じた。
  玄関のホールをからすぐにリビング。このつくりは黒狸の家の構造とも少し似ている。
  リビングのテーブルには他人行儀にちょこんと座ったキリシュ。その手前に紅茶。アマリネはティーカップを食器棚から出すと、黒狸の分も注いでくれた。
  黒狸はアマリネに「おみやげの抹茶マフィンです」と言って持ってきた焼き菓子を渡した。
「毒、入れてないでしょうね?」
「そうおっしゃると思いまして、手作りでなく市販のものですよ。アマリネ=リリーザ」
「何よ? 文句あるの」
  まだ文句も言ってない上に、いちゃもんをつけられたのは自分のほうだ。
  アマリネはマフィンを台の上に置くと、黒狸を睨み上げた。
「それで? 何の用事。まさかキリシュくんと私が会うのを邪魔しに来たなんてことはないでしょうね?」
「昔なじみの顔を見に来るのに理由が必要なのかよ?」
「昔なじみ……?」
  アマリネは大仰に皮肉をこめた笑いを浮かべた。
「よく言うわ。十年以上どこに住んでるかも聞かなかったくせに。薄汚いマフィア野郎」
  薄汚いと罵られてカチンと来たせいか、「相変わらず潔癖ですね。リリーザ少尉」と鼻で笑い飛ばしてしまった。
「あなたに階級で呼ばれる意味なんてないわ。それで何の用事? 何か裏があることぐらいわかるわよ」
「はあ?」
  黒狸は思わず顔を歪める。アマリネは黒狸を睨みつけたまま、「私の異能を知らないわけじゃあないでしょう」と言った。
「よくわからないけれど、俺、本当にリネに会いに来ただけだし」
「よく言うわね。私に気に入らない感情しか持ちあわせていないくせに」
「それはお前が俺のことを邪険に扱うからで……」
「よくわかってるじゃないの。邪魔なのよ、帰ってくださる?」
「あのう……」
  会った瞬間から言い合いしかしていない黒狸とアマリネを、小さく呼ぶ声がして振り返る。キリシュは紅茶をずずっとすすった。
「どうせだから、座ってマフィンでも食って、和やかな雰囲気で話せばいいんじゃない? きっと二人とも誤解してるんだよ」
  両者の知り合いであるキリシュが「誤解」と言うような誤解が双方の間にあるのだろうか。少なくとも黒狸にとってアマリネは再会した瞬間からこんなイヤミな女なわけだが。
「キリシュくん、こんな男と友達でいるとろくな目に合わないわよ?」
  アマリネにそう言われて、アマリネの認識に誤解だと言いたくなる。自分に生じた小さな誤解は蟻の触角ほどでも許せない。
「黒狸は本当はいい奴なんだぞ」
  キリシュのフォローにも反論したくなる。本当はってなんだ? 自分は十分いい奴だろう。と。
「騙されてるのよ。キリシュくんがいいように利用されちゃうわ」
  しかしアマリネは当然だが、黒狸がいい奴だなんて思っていないようだ。
「お言葉ですが、アマリネさん?」
  黒狸は自分が少しずつ攻撃体勢に入ってきていることに気づいていた。
「俺をチンピラ扱いするのもマフィアを薄汚れた組織と言うのも構いませんが、あなた自身は他人を裁くことができる立場にいるというだけじゃあないでしょうかね?」
「あら」
  黒狸の反撃にアマリネは失笑ものだという表情を浮かべた。
「私を否定したくらいであなたが人並みだと思われたら困るわね。並以下のヤクザ商売にあぐらを掻いて這い上がる努力もしないくせに、笑いものにされたらひとしきり怒鳴ることだけはできるなんて」
「リネー? 俺がマフィアの家系であなたが軍学校に進むときわかってたことだろ。努力のベクトルが違うだけでお前の気に入る生き方してない奴はすべて否定対象ですか?」
「私が気に入るか気に入らないかを聞く前に、あなたのやってることを正当化する自分への甘さを見なおしてから来てちょうだい」
「おい、調子のんなよ? お偉い立場かなんか知らないけどどこまで馬鹿にしてくれれば気がすむ――」
  思わず掴みかかりそうになり、寸前で持ち上げた手のやり場に困った。
「胸ぐら掴みたいならどうぞ?」
  アマリネが挑発するようにニヤリと笑う。胸ぐら掴むどころか張り倒してやりたいと感じるのだが、そうしたところで涼しい顔のままなのだろう。
「黒狸」
  後ろからキリシュに呼ばれて振り返ると、立ち上がったキリシュが仲裁するように二人の間に押し割ってきた。
「帰ってくれ、黒狸」

 そうしてアマリネの家を出る羽目になった。
  遺憾な気持ちを持て余しながら、近くにあった空のゴミバケツを蹴飛ばした。近くで寝ていた黒猫が不機嫌さを嗅ぎつけて遠くへと走っていく。
  アマリネの家のあった位置を振り返ると、小窓から彼女の影がちらりと見えた。
  頭の中で彼女の名前を繰り返す。
  アマリネ=リリーザ、アマリネ=リリーザ、アマリネ=リリーザ!
  お別れしたときと何も変わらない、潔癖な心と努力家な精神、弱さなど理解しない鋼の決意。
  かつて小学生の黒狸が大好きだった少女はそのまま強靭な大人の女性へと成長していた。
  そこに黒狸の入る余地などどこにもなかった。
  黒狸のことを理解する必要もなければ、黒狸と仲直りする必要もなかった。
  二十年近く前の話だ。
  彼女とちょっとした口喧嘩から仲直りする機会を逃したのは。
  会えば何か変わるかもしれないと思っていたのは大間違いだった。
  一つだけわかったのは彼女は黒狸もマフィアも大嫌いだということ。そして仲直りは永遠にできないということだ。