20 モルヒネの薬
「仕事しやがりくださいクソ上司」
と言われるまでもなく、その日の仕事の能率はひどいものだった。
エルムがパソコンの前に呼んでデータを確認してもすぐには理解できなかったくらいだ。
「わかりますか? 全部ずれてるんです」
「ほんとだ。ひどいな」
「ひどいですね。ずっとこの仕事をやってる経理の最高顧問がこんな凡ミス、ありえないわ」
「そうだな。新人レベルのひどさだ」
「部下Aは悲しいです。無能なトップのフォローをするのは一人でやるより大変です」
「最高顧問の上司はとても悲しいぞ。こんなに優秀な部下が俺のために泣いている」
「泣いてません、呆れてます。帰れ、クソ上司。仕事はやっときますから」
黒狸は机の上にあったチョコレートの缶をエルムのところに置いた。
エルムがパソコンの画面を睨んでいる間にゼリービーンズも並べた。
「ゴン、お前だったのか」
最近エルムはウィットに富んできたと感じる。帰る準備をしていると
「風邪に気をつけて」
とねぎらいの言葉まであった。
黒狸はスーパーで久しぶりに五時に買い物をした。
主婦たちが普通に歩いているスーパーを訪れるのは久しぶりのことだ。
買い物したい野菜を見比べながら、道行く奥様たちも黒狸は軽く品定めしてしいた。
あの奥様、お金持ち。あの奥様、肌きれい。あの奥様、きっと性格悪い。
人を観察するのは面白い。奥様たちは露骨にファッションからこだわりから人相まで人が出ていて特に観察していて楽しいのだ。
(あの奥様、キリシュ似。あの奥様、口紅赤すぎ。あの奥さ……あれ、あれキリシュじゃないか?)
キリシュ似の奥様はロングニットのカーディガンにジーンズのキリシュだった。
そういえば服が破り捨てられたときに買い換えたのでトレードマークの服はもう着てないのだ。
ぱっと見奥様だと思ったのは、服装が女性にもありがちなチョイスだったことと、もうひとつ、キリシュが子供を抱っこしていたことだ。
「キーリ!」
「黒狸? なんでこの時間いるんだよ」
「その子誰の子?」
「知らない」
わーわー泣いている女の子は鼻水を垂れ流していて、トナカイのジャンプスーツを着ている。
「ママーママー」と泣いているのを見て、迷子だとわかった。
「キーリ、迷子センターいくぞ。このままじゃヤバイ」
「迷子センターなんてこんな小さなスーパーにあるわけないだろ。すぐ見つかるって」
「男二人が子供抱きかかえてママーママーって攫ってるみたいだろ」
「あっそ。オレ一人で探すよ。黒狸は買い物して先に帰ってろ」
キリシュは泣いている子供の背中をさすりながらお母さんらしき人を探した。黒狸は仕方なくあとをついていく。
「あ! ごめんなさい。うちの子です」
泣いている女の子の母親は五分と経たずに見つかった。
キリシュにお礼を言った母親は、黒狸を一瞥して胡乱な男だと目を細める。そして娘に「おにーちゃんにお礼しなさい」と言った。
女の子はキリシュの口に熱烈なよだれと鼻水にまみれたキスをした。女の子は驚くばかりのテクニシャンだったようでキリシュの口を吸って舌でべろりと舐め上げてから笑顔で笑う。
「おにーちゃん、おじさん、ばいばい」
おじさんは当然黒狸のほうだろう。若干ショックを覚えた。
「さ、おにーちゃんたちから離れましょうね」
母親は女の子を抱き上げると、笑顔でお礼を言ったその態度とは別人のように、一目散で自分たち、というよりも黒狸から距離をとった。
この格好で歩いてたらマフィアかホストにしか見えないのは確かだ。自分が女の子を抱きあげてたら間違えなく捕まっていた。
ふと見ると、キリシュもこちらを胡乱な眼差しで見ている。
「五分で見つかったよ。黒狸」
「いや、俺だったら十分後は手錠かけられてた」
「行いが悪いからだよ」
行いが悪いのは認める。だけど誤解だと言いたい。
「キーリ、唇てらってらしてる。鼻水で」
「うわあ」
キリシュがごしごしとカーディガンの袖で唇をぬぐった。
「しかし子供抱っこしてその格好してると、お母さんに見えたぞ」
お母さんに見えた、というよりは性別が違って見えたに近い。見た目というよりも、雰囲気が子供慣れしすぎていた。
子供とたくさん接する機会があった人の表情や抱き上げ方だった。
黒狸は母親に抱き上げてもらった記憶がほとんどないので、素敵だと感じた。
「子供ってのはな、怖がって抱っこすると怖がるんだよ」
「ふうん。慣れてるんだな」
「いっぱい年下がいる環境だったしな」
キリシュの過去は調べてもらった限りでも謎の部分が多かった。
子供がたくさんの環境というとどうしても孤児院を想像してしまう。キリシュは目を細めて、遠くを見つめていた。
「キーリ」
「ソイソース、あれ安いよな」
「馬鹿か。原価知ってるか? もっと安いんだぞ」
「ケチくさ」
キリシュは醤油を買うのを諦めてレジへと並ぶ。買い物袋に詰めこみ、ひとつずつ袋を持って自宅へと戻る。
「そういえばさっき呼んだよね?」
忘れた頃にキリシュは思い出したように振り返った。
何の用事で呼んだのか忘れていたので、黒狸はスーパーでの一連の流れを思い出して、自分が何を聞こうとしていたのか考えた。
孤児院か施設のようなところに居たのか、と聞くのはちょっと考えものだった。
「何か聞こうとしたけど忘れたな」
仕方なくわざととぼける。
キリシュは「思い出したら言ってくれ」と言い、玄関の前でビニールを下ろす。黒狸が鍵をさしこむのを見計らい、キリシュは中に先に入る。
「ベランダすべるんじゃないか? 鍵渡そうか」
「ありがたいけど、いいの?」
キリシュは当然そんなもの貰えないと思っていたらしく、不思議そうにこちらを見た。
「鍵なんてほいほい知らない奴にあげるもんじゃあないだろ」
キリシュの問いはそのとおりだ。黒狸自身も自宅の鍵をあげたことがあるのは弟の雪狐とネフリータぐらいだろう。
「ほら、お友達だし」
はぐらかすようにそう言うと、キリシュの態度はいつものように「そうか、お友達だしね」とはいかなかった。
「友達だからって、鍵渡しておいていいのか? オレの素性もしれないのに、黒狸はオレのこと信じすぎなんじゃないのか」
言われてみればそうだなとも感じる。事実今まで付き合いのあった人に鍵を預けなかった理由は信じてなかったからではなく、だからといって鍵を渡すかどうかは別の問題だと黒狸自身が思っていたからだ。
「なんでだろうな。鍵渡していいって思ったなんて」
「無用心すぎだよ」
キリシュはビニール袋をもう一度持ち上げると冷蔵庫の前まで行った。キリシュの後ろに荷物を下ろして、黒狸は片付けをキリシュに任せ、洗濯物を取り込む。
自分の普段着とは違う、やわらかいニット地の服をカゴの中に突っ込みながら、これでキリシュの性別を誤魔化せないかともし自分が少しでも思ってるとしたら無駄な努力をしていると感じた。
「キーリ、買った服の着心地どう?」
今更すぎる質問に、キリシュのビニールを漁る音が止まった。
「なんか、こそばゆい」
「こそばゆい?」
「うん。人に服買ってもらうことなんてなかったし」
「俺も男に服から下着から揃えたのは初めてだ」
そう。黒狸はそんな至れり尽せりなサービスは女性にしかしたことがない。
今でも少し信じられないくらいだ。
「……いつか返すよ。お金って形じゃできないかもだけど」
キリシュがぽつりとそう呟く。こんなときに気にするなと言えたら気っ風がいいのだろうが、「それじゃあキリシュが要望をどんどん断りづらくなるんじゃあないだろうか」なんて、余計な気を回していた。
「気にするな」と言うべきか、それとも「返せる形でいいよ」と言うべきか迷っているうちに、キリシュは夕飯を作り出す。
魚を網焼きにして大根おろしを擦る音が聞こえだす。
「その魚でいい」
「は?」
「おっきいほう俺の。それでいい」
「食い意地はってんなあ」
キリシュは服のお返しが大きいほうの魚でいいと言われているとは思っていないのだろう。黒狸も服が秋刀魚になるなんて思ってもいなかった。
「へっくち」
キリシュがくしゃみをする。
「さっきの青鼻てらてらが効きやがったみたいだな」
黒狸は大根おろしを擦ってるキリシュのところまで行き、大根おろしをそっと取り上げた。
「風邪なんてひいてないのに」
キリシュが不満気にそう言うが、今の時期花粉がとんでいるわけがない。
「いいから、薬飲んどけって。CDプレイヤーの下に引き出しあるだろ? それの上から二つ目が薬置き場」
キリシュはさほど抵抗する様子もなく、素直に薬を飲みにいってくれた。
「黒狸、薬いっぱいあるよ」
「胃薬の隣」
「わかった」
大根おろしをいったんやめて、キリシュのために水を汲んでカウンターに置いておく。
キリシュはそれで粉薬を飲んだ。
粉薬? 錠剤で買っておいたはずだ。そう思って顔をもう一度あげる。
「キーリ、その薬、何?」
「へ? 黒狸が言ってた薬だよ」
そうだっただろうか。普段愛用している風邪薬はもうちょっとこう、鮮やかな青と白の不健康そうなカプセルだった気がするのだが。
もしかしたら古い薬だったのかもしれない。黒狸はそういうものを飲まないが、キリシュに新しい薬と古い薬の判別がつくはずもない。
風邪のキリシュにかわってビタミンたっぷりの夕飯を作ろうとかぼちゃを煮たりトマトを切ったりしていると、ふいに背中が温かくなった。
キリシュが背中に張り付いてきた。しかもご丁寧に黒狸の腹に腕まで回して。
「熱い……」
熱に浮かされた声で、キリシュが呟く。たしかにキリシュの体が熱い。
「薬飲んだら、どんどん熱くなって、く……っ……」
おひたしにしようとしていたピーマンを握ったまま黒狸は硬直した。
背中にキリシュの熱い吐息がかかる。悩ましげな溜息と、すがる手が強くなる。
「熱い……助けて」
なんだ。なんなのだろう。まるで誘われているみたいじゃあないか。
風邪で気弱になってるからといってこれはいきなりしおらしくなりすぎだろう。
「キーリ? さっきどんな粉薬飲んだ?」
「アルファベット、書いてあるやつ。白いフィルムの」
「ああ、あれか」
モルヒネの試験薬だ。黒狸は試したことがなかったが、狐所属の人間は新薬ができるたびに貰う。
モルヒネの快楽増長剤――媚薬はいらなけりゃ売り飛ばせばいいだけなのだが、いつか売ろうと思ったまま古くなって放置された薬のほうに手をつけてしまったようだ。
「へいりー……」
呼ばれて、ゆっくりとピーマンをまな板の上に置いた。
キリシュを振り返ると、とろんとした視線がこちらを見つめている。
じっと見つめるとキリシュのほうから視線をそらすのはいつものことだが、普段と違うのは黒狸の視線を感じてぷるぷると震えているところだ。
(このまま、食っちまえるかな?)
紳士的に対応する必要なんてない。
誘われてそうするってことはお前に性的魅力なんて感じてないと言っているようなものだ。
「キーリ」
顎に手をかけて、キリシュをこちらに向かせる。
キリシュの唇に、自分の唇を重ねた。
珍しく物欲しげに開いた口に、舌を差し込む。
「んっ」
間近で喉仏がごくりと鳴るのが聞こえて、キリシュが声を呑む。
そこではたと気づく。薬でおかしくなってるキリシュに何をやろうとしていたんだ? と。
「なんで……?」
なんでやめるの? と聞かれてるのか、なんでキスしたの? と聞かれているのか判断がつかないくらいに黒狸も混乱していた。
「ちょ、友達に薬に詳しい奴いるから、解熱剤もらってくる!」
黒狸は慌てて離れると家を飛び出した。
よくよく考えるとモルヒネはお友達なんて可愛らしい存在ではないのだが、キリシュがお友達かと聞かれたらそっちもそんな可愛らしいものに分類できなかった。
結局、モルヒネから解熱剤は貰えたが、媚薬は無理やり解毒するよりも抜けるのを待ったほうがいいと言われて貰うことはできなかった。
「キーリ、解熱剤貰えたよ」
まだぼんやりしているキリシュに粉薬と水を渡す。
「へいりー、ありがと」
「どういたしまして」
なんとか誤魔化せたかな? と思っていると追撃があった。
「へいりー、へいりーはお友達にキスするのか?」
そんなことはしないよ。キリシュだけだよと言おうとしてあまりの気持ち悪さに口が自分で歪む。
「特別な友達ならばな!」
キリシュは思考のまとまらなさそうな頭で「そうか」と呟き、薬を飲むとそのままことりと寝てしまった。
きもちわるい、きもちわるい、きもちわるい。
祥黒狸、気持ち悪いですね。特別なお友達ならキスするんですか。
自分で自分を罵倒してみるも、あまり意味などなかった。もう開き直ったほうがいい。
祥黒狸は暴走している。止まることができない。
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