22 殺人衝動
十一月のその後は、キリシュのレイプ以外おおむねでかい事件もなく、仕事でも別段トラブルもなく、いつもどおりの日常が続いた。
部下のエルムは相変わらず優秀だったし、黒狸も普通に食事して普通に睡眠をとっていたため、健康を崩すほどひどいメンタルにはならなかった。
キリシュとはモルヒネの媚薬の一件以来、少しだけ口をきけなくなっている。
他愛もない話ならば今でもしているが、黒狸ははぐらかしているし、キリシュは黒狸が避けてるのを感じ取っている。
もういい。キリシュだってこんな自分をお友達だと思ってくれるわけがない。
キリシュを避けているうちにキリシュとの距離が途方もなく離れるのが怖かった。
それと同時に、何かあったら助けを求められるよう、余っていた携帯も渡していた。
必要があったら戻ってくるだろうし、必要がなかったら自由にしていればいい。
そう頭のほうでは割り切るが、感情のほうは必要としてくれないだろうかとまだるっこしいものがぐるぐると回る。
襲われる危険を考えると家にいてほしかったが、一生安全な場所で暮らせるわけじゃあないし、一生黒狸の家から出さないわけにもいかない。
キリシュは黒狸に「平気だ」と言った。
キリシュが平気だと言うのであれば、それに任せるしかないのだ。
「メルティアの奴、ハンバーガーしか食べてないから風邪ひくんだよ」
だからあれほど食事を怠るなと言ったのに、体が弱い上、人には残酷なことをするのが大好きというメルティアは風邪をひいて今日休んだ。
おかげで、普段回ってこないような身の毛のよだつマフィアらしいお仕事の処理が黒狸とエルムに任された。
「しかしグロいな……」
死体の確認やら、拷問の確認やら、麻薬の副作用報告やら……研究担当の蛇班に回す手前の報告書の類が特にひどい。
メルティアはこんな仕事を毎日やっていたら気が滅入らないのだろうか。
これでハンバーガーを食べられる神経がよくわからない。
メルティアは自分のことを「精神的に弱い」と言っているが、十分鋼の図太さをした神経だと感じる。
「エルム、今日のごはんどうする?」
「もうカルビ丼買ってきちゃったあとです」
「おい。食べられるのか? いっしょに外にラーメンでも食いにいったほうがよくないか?」
「一人で食べてください。普段の仕事量にメルティアさんのが乗ってるんですよ? 私はお昼を食べる時間だって惜しい」
エルムはパソコンを真剣に見つめていて、パソコンの画面をリズミカルに変えるカチカチという音が聞こえていた。
黒狸も写真をカチカチとコマ送りにして順々に見ていた。
メルティアならば何を報告書に書くべきか、コツがわかるのだろう。
黒狸にはまず、気持ち悪いという感情が先に来て、そのあとに何をどう処理するべきか考えるために作業は難航している。
ふと、目に止まった画像――写真に小さく映る人影に目がいったのは、それがあまりに知り合いに似ていたからだ。
拡大してみれば、やっぱりそこに写っていたのはキリシュだった。
こんなところで何をやっているのだろう? という疑問と同時に、こいつはあんな目に遭ってまで同じことを繰り返すのかという呆れも混じった。
心理学の何かの説に、レイプ被害にあった女性は似たような代償行為をずっと繰り返して傷を癒そうとするという内容があるらしいが、そんなものなのだろうか。
「エルム、俺やっぱりあったかいご飯が食べたいから自宅にいったん戻るわ」
「愛妻のごはんですね。裏切り者」
「そうですよ。妻の浮気を発見したのでちょっと罵ってきます」
エルムは本気にしていない。
黒狸が本気で言っていないことくらい彼女にはわかっている。
そうして黒狸が家に用事があることくらい見抜いている。
「明日は仕事に戻ってきてくださいね」
「うん、そうする」
コートに袖を通しながら、カードを通して仕事を切り上げる。
「エルムさん!」
「なんでしょう?」
非常に申し訳ないお願いをしなければいけないことを思い出し、黒狸はエルムを向き直って両手を合わせて拝むようなポーズをした。
「ごめん、メルティアの仕事、俺の分もやっておいて?」
エルムの眉間にシワが刻まれたのは言うまでもない。恐る恐る彼女にディスクを渡した。彼女のそのままディスクを叩き割ってやろうかという表情が非常に怖い。
「あなたは家で温かいごはんを食べて、私はその間グロ画像と格闘するのですね。愛妻によろしく!」
棘のあるエルムの声に小声で「すみません」と言ってそのままオフィスを出た。
さて、オフィスでは愛妻というコードネームになりつつあるキリシュだが、コードネーム愛妻は現在家にいるはずだ。とりあえず連絡を先に入れることにした。
「キーリ? 昼飯家で食うことにしたからホットケーキ焼いておいてくれるかな」
――卵切らしてるから外にいたんだ。今買って戻るよ。
「俺も今から帰る。じゃあな」
卵はあと二つあったはずだ。
料理を作るのが好きな黒狸は冷蔵庫の中身を記憶するのが得意である。
気づかないふりをして何食わぬ顔で帰るべきか、それとも先に帰って問い詰めるべきか悩むが、問い詰めたところで結論は黒狸家に帰ってこなくなるというものだろう。
帰る場所が他にあるならばいいが、宿なしで狙われていて家にも居場所がないならば可哀想だ。やはり回りくどくやるしかないと判断して、コーヒーショップで時間を潰してから家に帰った。
「お帰りなさい」
ダイニングにはホットケーキのいい香りがした。バターとはちみつが絡みあう匂いは黒狸も好きだ。
キリシュは分厚く焼いたホットケーキを皿に盛り付けて、珈琲を入れているところだった。
「今焼けたところだ。間に合ってよかった」
「今日は仕事、このまま家でやるつもりだから急がなくてもよかったんだぞ」
コートを脱いでハンガーにかけると、テーブルについた。
黒狸は「いただきます」を言い、キリシュは食事の祈りを捧げる。
キリシュはきっと教会に行くタイプなのだろう。
キリシュの焼いたホットケーキをもぐもぐと食べた。
食べながらキリシュの様子も窺った。
彼はいつものように食べかすやはちみつを口元につけながら、ホットケーキに夢中である。
この様子を見るといつもと変わらないわけだが、あんな目にあってもこの調子のままだとかえって不安になるのは側にいる自分のほうだ。
「なんだよ? オレでなくホットケーキ見てろよ」
ミルクを飲もうと視線を上げたキリシュは、黒狸がずっとキリシュを見つめていることに気づいたようで眉を寄せた。
「こんな日常が続いてく毎日って理想的ですね」
日常は理想的でも、その水面下で何が動いているのかわからないのが怖い。
キリシュは黒狸がホットケーキを食べずにずっと見つめているのを気持ち悪いと思ったらしく、「変なの」と言って食器を持ってキッチンへと逃げた。
「キーリ、最近何しているの?」
食器を洗うガチャガチャという音が一瞬途切れて、また音が鳴る。動揺したな? と胸中察した。
「ギルドいったり、戻ってきたりだよ。どうして?」
スラムはギルドの方面にあっただろうか。あの写真がどこでとられたものかは判断つきかねた。ギルド周辺にあるスラム街かもしれない。
「ギルドって今も忙しいのか?」
「けっこう忙しいよ」
「最近けっこう移動してるし、ギルド以外に何かやってることある?」
「あるよ。ちらほら……仕事とか」
はい、嘘。
仕事をやっている人は「仕事とか」と中途半端な濁し方はしないだろう。
特に今まで無職だったならばなおのこと、どんな仕事を始めたとキリシュならば言うはずだ。
はぐらかされたのはわかっているが、むやみに突っ込めない。
「ねえ、どうして?」
だが、突っ込めずにいた黒狸に助け舟を出したのはキリシュだった。
これは墓穴を掘っているのか、それとも聞いてほしいのか黒狸は判断がつかなかったが、もらったチャンスは活かそうと考えて、言った。
「俺の仕事で見てた写真にキーリが映ってた。日付はレイプの日より新しいのに、何故かスラムで」
なんで? と視線をキリシュに投げかける。
キリシュは答えない。
まあ理由があるなんて黒狸も思ってはいない。
つまり習慣であり、惰性だ。
体が勝手にそっちに動き、脳が痛みを繰り返そうと暴走しているにすぎない。黒狸はそう考えている。
「二度と同じ目に遭ってほしくない俺の気持ち、察してほしいんだけど」
理由なんてどうでもいい。
スラムに行くのだけはやめさせたい。
「悲しみなんて、全部俺の関係ないところで起きてほしいんだ」
他がどれだけ悲しもうが関係ない。
自分の周りでの悲しみは阻止したい。
「……そう。大丈夫だよ。二度目はない」
キリシュは静かな口調でそう言った。
何か今、ぞっと背中に走った気がした。
「二度目なの?」
二度目の被害じゃあないだろう。
あれが一度目の被害じゃあないはずだ。
そう言おうとしたら、先にキリシュが口走った。
「今度は、ちゃんとやる」
言葉が繋がらず、間があいた。
黒狸はこの言葉の意図を確認するために、自分の勘違いであることを祈りながら、聞いた。
「何を?」
キリシュは食器を洗い終わり、手を拭きながらにっこり笑った。
笑った笑顔がいつもよりも自然で、いつもよりふんわりとしていて、それでいて狂気じみていると初めて思った。
ここは笑う場所じゃあないはずだ。
「たのしくてさ、しょうがないんだ」
まるで探検の計画を立てている小学生のようなうきうきした口調でキリシュは続ける。
「あれから、ずっと考えてる」
キリシュの言葉がどうつながるか、もう察しはついたが、怖くて頷くことしかできなかった。
「どうやって、殺してやろうかって。やるなら、派手な方がいいかな。血が、いっぱい出るんだ」
うっとりと呟くキリシュが、冗談で言ってないことくらいわかっている。
至極楽しそうに、最近機嫌がよかった理由がこれだとしたならば、人としておかしい。
「キーリ、それ」
言葉に咎める気持ちが入っていなかったと言ったら、嘘になる。
「きもちいいの?」
とても、楽しそうに語るキリシュに、それはおかしいという気持ちを抑えてそう質問した。
気づけ、今なら間に合うと。
「うん。やられてるときより、ずっと気持ちが良い」
そんなの当たり前だろうという口ぶりだ。
ぺたぺたと黒狸のほうにキリシュが歩いてくる。
ダイニングの椅子に腰掛けてた黒狸が、反射的に立ち上がった。
キリシュに対して防衛反応が働いたのだと知ったときは少し驚いた。
キリシュは黒狸が立ち上がった様子をよくわからずに見ている。視線が間近でかち合った。
「そりゃそうだな」
さっきの答えに対して、自分の答えをだそう。
「でもそれは、違うと思う」
いじめられるより、いじめるほうが楽しいといじめっこが言っているようなものだ。
理解はできるが、そうであっていいと言ってはいけない内容だ。
「どうして?」
キリシュが眉を寄せた。
「よくわからない。黒狸はこの前いいって言った。自然なことだし、黒狸も許せないって」
「ああ、そうだな。言った」
あのときは自分もそういう気持ちだった。キリシュが今も許せない気持ちがあるのはわかる。
「家出るなよ。俺はお前がそういう目にあうのは嫌だし」
キリシュが殺されたり、いじめられたり、強姦の被害に遭うのを見たくない。それに……
「お前が血まみれで笑ってるの、嫌いだ」
嫌悪の感情をキリシュに出す日がくるとは思ってもいなかった。
つい最近まで、嫌いだという感情さえ認められなかったのに、それは嫌いだと言っていいと教えてくれたのはキリシュだというのに。
「オレ、おかしいの?」
キリシュがおかしいと言えば終わる問題なのかもしれない。おかしいから外へ出るな、おかしいから人の目を気にしろ、おかしいからまともになれ。
そう言ったらきっとキリシュはおかしいと信じるのだろう。自分がおかしいから被害にあってきたと、彼は今でもどこかでそう思っているはずだ。
「お前がおかしいとか言う資格ない」
「どうしてだよ?」
「言いたくない」
「言ってくれよ。オレ、どうしたら良いかわかんないんだ。黒狸」
あんたに嫌われたくないよ。と、困った表情をして呟くキリシュに、俺だってそうだと言いたいが、先に言わなければいけない言葉がある。
「許さなくていい。行動したらだめだ」
言っている意味はわかっても、理解はできないという表情をしているキリシュが、苦肉の案でこう言った。
「ここにいればいいのか? 黒狸の家にいればいいのか?」
まるでこのまま置いていったら死ぬんじゃないかと思うくらい、寂しく不安でたまらないという表情をつくってキリシュはこう言った。
「黒狸は側にいてくれる?」
仕事で明日も紅龍会に行きますが、などと言わせてくれる雰囲気ではなかった。
「ずっと居ていいよ。居てやる」
あとからなんとでも言い直せる。とりあえず気持ちを受け入れよう。
黒狸は自分で、顔が苦悩に歪むのがわかった。その表情筋の動きにキリシュが不安を感じているのも。
「暗いところへ行くな」
もう暗いところへ行かせたらだめだと自分にも言い聞かせる。
「うん。いかない」
キリシュが黒狸のシャツの裾をつかんだ。
「……約束してくれるよな。暗いところには行かないから」
「気がすむまでいっしょにいてやるから」
明日仕事を家に持ってきてもらおう。エルムがキリシュを見てなんと言うかわからないが、一人にさせるわけにも、仕事をしないわけにもいかない。
あれこれ対策を考えている間に、キリシュが黒狸の胸によりかかってきた。
余計な思考がすべて吹っ飛ぶのがわかる。
左肩にのったキリシュの顎や、肩口にくっついた彼の喉仏が不安な気持ちを伝えるように、ゆっくりと息を呑む。
黒狸も思わず呼吸するのを忘れかけた。
「寒いんだ。何処にいても、寒くて震えてる」
映画の見過ぎな台詞ではないことは、彼の体が小刻みに震えることからわかっている。
「もうすぐ冬だな」
今日は冬になろうとしている晩秋としてはあまりに暖かく、朗らかな陽光だ。
密着しているせいで黒狸の体温は上昇しているのに、キリシュはだんだん冷たくなっているように感じる。
キリシュが黒狸の胸を押して離れた。何もマズい対応はしていないはずだが、何かマズいことを言ったのはわかっている。
「寒いだろ。風呂入れよ、食事作るし」
キリシュは何か諦めたような足取りで、ゆっくりと風呂場へと向かった。
黒狸は自分の両手を見た。何故抱きしめてやらなかったのかと自分に聞いたが、相手が男だからとか、相手がキリシュだからとか、そんな陳腐な理由じゃあない気がした。
わかりたくもなかった。キリシュが自分より残酷だなんて。
食事を作っている最中、何度かフライパンをかき混ぜる手が止まった。
キリシュが上がってきても、もたついて料理を作っているため、隣からキリシュが箸を突っ込んで料理をかき混ぜるくらいには上の空だった。
「さっきは変なこと言ってごめんな。もう平気だから」
キリシュが笑顔を作って、もう大丈夫だと黒狸に言ったが、それで大丈夫だなんて思えなかった。
「キーリ……」
やっぱり、言わなきゃいけない。
この気持ちを避けて通るわけにもいかないし、キリシュには伝えなきゃならない。
キリシュのことを大切に思っている人間がいるということを。
「お前のことが好きなんだ」
キリシュが箸を止めて、こちらを見つめてくる。
気持ち悪いと思われただろうか。キリシュは自分のことを友達だと思っているはずなのに、黒狸のほうだけ勝手に暴走して、気持ち悪いと思ってるんじゃあないだろうか。
「嘘言ってないからな。友達にこんなこと言わない」
キリシュはまだ言われていることの意味がわからないような、戸惑っているような表情をしている。視線が泳ぎ、黒狸を見ているようでもっと遠くを見ていた。
「黒狸は、オレのこと友達だと思ってないのか?」
どう答えるべきだろう。
そうだよ? それ以上だよ? 友達のままがいいのか?
「だからってどうして欲しいってわけじゃあないけど」
黒狸は自分の中から一番誠実そうな言葉を探した。
キリシュに嘘はついていない。でも自分に嘘をついている。
ああしたいこうしたい、考えてないわけがない。
黒狸は珍しくキリシュの目を直視できずに視線を落した。
「でもこれだけは覚えておいてくれよ。大切な人が傷つくのを見るのはもうこりごりだよ。だから、スラムには行かないでくれ」
伝えたいのはそれだけだ。
それ以上なんて今は望めないし、嫌だと言われたら一生望まない。
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