25 無頓着の香り
我にかえった黒狸に、ラストは
「楽しめたようで何よりだよ」
そう言った。チャーリーが黒狸でなかったと言えるかい? そんな表情で。
胸糞悪い日だった。とっとと忘れよう。
仕事帰り道、ふと立ち止まった。
立ち止まった理由はなんとはなしに嗅いだ自分の体臭。普段は気にならない獣臭さが、いつも以上に不快さを増して鼻をついた。
耐えられない臭さに感じた。
まるで動物じゃあないか。理性的だと思ったことはないが、これじゃ獣だ。
キリシュのところへ帰る前に気分転換が必要だ。
ユンファの銭湯にでも行くべきか。
そう思ったところで目に入ったのは青い猫のボトルだった。
ブティックの名前をチェックすると「レ・クリ・ドゥ・ブナー」と書いてある。頭の中にあるうっすらとした語学の知識で、たしか幸せとか、鍵とか、そんな意味だったはずだと思い出す。
「幸せ……」
ぽつりと呟く。
恵まれた一生だったけれど、幸せだったと言えたかな? なんて。
ブティックの中に入った。
店員は美人じゃあなかった。だけど素敵な笑顔で迎えてくれた。
窓口にあるボトルを指さして、香りを嗅がせてほしいとお願いした。
スプレーしてくれたものを鼻で目一杯吸い込む。
鼻をくすぐる優しい香りに心のトゲトゲが取れるような気持ちになった。
悪趣味で傲慢な香りでなく、こんな匂いをつけていたら少しは優しくなれるんだろうか。キリシュや他の人にも優しくなれるのか。
「この香水買っていいですか?」
「ル・シャ・ブルーですね。包みます」
きびきびと店員が包む間、男物とは言いがたい香水が煙草と混じって苦さを帯びていくのを感じた。
不快な匂いではない。むしろ黒狸の体臭にはあっている。
「プレゼントですか?」
黒狸は首を振った。自分用だ。自分のために買ったのだ。
「俺が使うつもりなんで、包装はしなくていいです」
店員は頷いて、袋に入れただけで黒狸にそれを持たせてくれた。
「青い猫の香水は幸せをイメージしたんですよ」
そんなキャッチフレーズを添えて。
店を出て、手首についた香りを嗅いだ。
煙草のほろ苦さにフルーツと花の甘い香りが絡み付いて、複雑な甘さを漂わせている。
まるで、幸せは一筋縄じゃいかないよとばかりに。
家に帰れば、キリシュが何も知らずに寝ていた。
起きたときに「今日どんなことしてきたの?」
と聞かれたらどうしようと考えた。お前そっくりの髪の色をした軍人を殺したとは言えない。黒狸に秘密があるように、キリシュにもきっと秘密がある。
ベッドサイドに腰掛けて、キリシュの髪の毛を梳いた。まったく反応する素振りさえない。
枕で顔押さえるだけで殺せるんだろうな。
あまりに無防備なキリシュを見てそんなことを考えた。
彼の頬を指で撫でて
「弱くてごめんなさい」
と謝った。守る力も、救う力も、向き合う余力も、何もかもなくてごめんなさいと。
キリシュの頬を撫でると、煙草を吸うためにベランダへ出た。
外はもう真冬の空気で、手袋をしていない手が、煙草を吸うだけの時間で白く冷たくなっていた。
外気の冷たさでキリシュが起きたらしく、ベランダへ出てきた。黒狸は煙草を指にはさんだまま、隣でてすりに寄りかかったキリシュを見た。キリシュが寒いと言うので、なるべくあったかそうなニットを買ってきたが、今も彼は寒そうだ。
「寒くなってきたな」
ぽつりと黒狸は呟く。キリシュは手すりに腕を置き、自分の顔を腕の中に半分埋めて、こくりと頷いた。
「黒狸、いつもと違うにおいがする」
「香水に苦情がきたから、買い換えた」
彼は相当鼻がきくようだ。彼の鼻がくん、と動くのがわかる。
「いい香り。こっちの匂いのほうが今までのやつよりずっといいと思う」
「そういうもん? 香りなんて全然わからないけれど」
香水なんてインテリアのおまけだと思っていた。煙草の香りと混じったときに邪魔にならなければいい。
「なんでその香水にしたんだ? 好きだったからじゃあないのか」
キリシュにそう聞かれて、どうなのかと自分に問う。
丈の高い青い猫のボトルを見つけたのは、ほんの偶然で、それを手にとったのも本当に気まぐれだった。
レ・クリ・ドゥ・ブナーと記されたブランドはよく知らない。学生のときの知識を一生懸命掘り起こして、たしか「幸せ」とか「鍵」とかそんな単語だったような気がする。
「幸せの鍵」って意味じゃあないだろうか。ボトルの底にはル・シャ・ブルーと読みづらいフォントで書いてあった。
そのとき、キリシュと最初の頃に青い猫を飼っている奥様の話をしたのを思い出した。
青い猫はとても賢く、奥様は馬鹿だった。
奥様は嫌いだとキリシュに言った。猫が可哀想だったと二十年以上経ってやっと認めた。
青い猫を可哀想だと思っていた奥様は、何度青い猫に心を救われたのだろうか。青い猫のことを虐待しているとも知らずに、猫のことを必死に考えて一番この子のためになることはと、ずっと努力していた奥様。
青い猫の飼い主は馬鹿だった。今日ラストに、飼い主よりも猫のほうが頭がいいと言われたことも思い出す。
キリシュのほうがずっとお前より賢いと言われて、ああ見くびっていたなと素直に反省したことなど。
「黒狸、好きか嫌いか聞いてるけだよ。考え込みすぎだ」
ずっと沈黙していたら、キリシュが退屈そうにそう言った。
「考えすぎなんだよ、回りくどい。黒狸はいつもそうだ」
たしかにそうだ。ずっとこの回りくどさに付きあわせているのに、キリシュは呆れるだけでまだ隣にいる。まだ隣にいるというだけで、明日も明後日も、一年後もいるとは限らない。
「この香水のボトル、青い猫のボトルなんだよ」
素直に好意を表現しようとしてもそれが精一杯だった。キリシュはくどいとばかりに半眼になる。
「好きなの? 嫌いなの?」
「好きです」
「うん、オレもその香りは好き。それでいいじゃない」
あとはどうでもいいとキリシュは大きくあくびをする。
ああそうか、好きとか嫌いとか、それくらいシンプルでいいのか。そこに理由や説明をいちいちはさまなくてもいいのか。キリシュの超翻訳に驚いていた。
「俺はキリシュのそういうところ好きだな」
「ふうん」
気のない返事だ。なんだ、また悪いことを言ってしまったのだろうか。好意的に言ったつもりだったのだが。
「信じてないだろ、キリシュ」
「黒狸のそういうところがオレは嫌いだ」
すごく腹が立ったとばかりに、キリシュは言い切った。
「別に、彼女でもなけりゃむさくるしい居候の男だけど? でも寝ている間に髪の毛撫でて『弱くてごめんなさい』って。反論できないうちに謝罪して、都合のいいオレだけ好きだよって言って、そうじゃないところははぐらかして、いい加減腹が立ってるのわかる?」
「言っている意味がわかりません」
キリシュはこんな言い方を普段はしない。何が言いたいのか、キリシュの言葉の意図をつかみかねた。
「あんたのまねして、言ってみたんだけどな」
なるほどそういうことか。黒狸は自分の言葉の空っぽさをやたら自覚した。
キリシュは間髪置かず、今度はストレートにこう言った。
「オレのこと大切ならさ、好きか嫌いか、どっちかにしてよ」
すうっと息を吸って答えを待つキリシュの頬が赤く染まる。
普段は視線をずらすくせに、まっすぐ見つめてこられて心臓を掴まれたような気がした。逆に黒狸の視線が泳いだ。
空気が冷たいのに、頬が火照るのがわかった。
まて、男相手に頬を赤く染めるなんてことがあるわけがない。これは寒さで紅潮しているのだと自分に言い訳をする。
キリシュのことは大切だし、好きだ。キリシュは男も大丈夫なようだが、自分に下心はないと言いたい。まず、想像がつかない。
「嫌いなら、もう来ないから」
「キリシュくん、キリシュくん、どこでそんな女が使うみたいな駆け引き覚えてくるわけ? おねーさんたちから習うの?」
「時間切れ。もう知らないよ」
完璧女と同じ拗ね方じゃあないか。ベランダから部屋に戻ろうとするキリシュをどうやってあやすか悩む。
背中が寂しそうに「抱きしめて」と言っているような気がするが、それを男にするのはとても躊躇する。女だったら簡単だ。このタイミングで抱き寄せればいい。甘い言葉をいっぱい囁き、ハードルをがんがん落としてキスすればいい。体を結んで「愛している」と誓えばいい。そのシンプルな公式が、男だと一切当てはまらない。
抱きしめてくださいと背中に書いてあるキリシュが、そのまま部屋に消えていった。煙草はもう消えているので、黒狸が部屋に入ろうとした瞬間、がらがらと扉が閉まり、目の前で鍵をかけられる。
「おい! キーリ」
「ちょっとは凍えろ」
キリシュの口がゆっくりそう動いた。とても機嫌を損ねたのだけはわかる。窓ガラスごしに口パクで謝り倒すが、まったく聞き入れてくれる様子がない。
「はいはい、わかりましたよ。俺と恋人ごっこしたいわけですね。シチュエーションは間男と良妻ですか。了解しましたよ、はい」
聞こえてないだろうと思って口をそう動かすと、キリシュはわかりやすいように親指で首を掻っ切るジェスチャをした。読唇術くらい軍じゃ習っているらしい。
どこまでこいつは賢い自分を隠して黒狸に合わせてくれたのかわからない。窓越しに痴話喧嘩している。しかも男と男で。
やっぱり機嫌を損ねた理由は先程のタイミングで好きだと言わなかったからだろうか。一方的すぎるじゃあないか。そんな気持ちまだ意識さえしてないのに。
「好きだ」
口をゆっくりそう動かしたら、キリシュの眉間にシワが、そして目が笑ってないのに口が微笑む。
「遅い。凍えてろ」
口がそう動いた。
黒狸を放置してキリシュはキッチンに向かう。窓を叩いても、こすっても、こちらを見て小馬鹿にしたように笑うだけ。
これみよがしに何かレンジであたためているのが見えた。
黒狸に見えるように、あたたかい部屋の中で冷たいビールを飲み、異邦人街で黒狸が買ってきた焼き豚をつついている。
キリシュが好きそうだと思って買ってきたが、いっしょに食べるつもりだったのに自分だけ仲間はずれだ。
窓ガラスの前まで一切つまんで持ってきて、目の前であかんべをして口の中に焼き豚をおしこむキリシュ。子供かと言いたいが、指についたタレを舐めあげてる姿は子供というにはいささかあざとすぎる。
「お前、どこまで本気でやってるの? どこまで俺を振り回す気?」
肩がやたら落ちるのがわかった。唇の動きを読んでもキリシュは目を細めるだけで、向こうへ行ってしまった。
もう知りません、あなたのことなんて知りません。怒りがそう長い間持続するとは思えないからしゃがみこんで窓に寄りかかった。
とても寒い。中に背広を置いてきてしまったのでシャツ一枚だ。シエル・ロアの冬がそんなに寒くないからといって、十二月になろうとしている時期にそんな格好で風邪を引かないわけがない。
「風邪ひいたら休むしかないな」
エルムに風邪を移したら、マネーロンダリング管轄は全滅である。狐班は明らかに人を増やすべきなのに、減ることはあっても増えることはあまりない。
考える時間があると色々思い出してしまう。ラストの異能やキリシュの受けた暴行、ラストとキリシュの関係から軍部の動き。
自分に何ができるというのだろう。狐班のマフィアなんて、多少荒事も可能なサラリーマンでしかないというのに。
キリシュに勝つ体力もなければ、軍部と戦うほどの正義感も自分にはない。キリシュを守り切る自信もなければ、飼い猫に愛想を尽かされる可能性だけはおおいにありえると自分で頷けた。
「俺のこと信じてよって異能でかけられるかな?」
誰にも聞こえないし、背中を向けてるから唇も読まれないはずだ。そっと呟いた自問。
黒狸の異能【Believe】は自分の信じているものを、相手に信じこませるというものだ。ただし相手がまったく信じていなかったら効かない。
黒狸はキリシュに「俺を信じて」と言うとき、何を信じてほしいのか、具体性も実行力も何もないと知っている。自分でもわかっているのだからキリシュだって絶対に見抜いている。
キリシュは自分のことを疑っているとは言わないが、失望している。とてもとてもがっかりされているのだけはわかるのだが、応用がきかず次も次もがっかりさせている。
唐突に背中の窓が開き、預けていた重心を失って後ろに倒れかけた。キリシュの膝に凭れかかるような角度で、キリシュを見上げる。しかし機嫌を損ねっぱなしの顔だった。
「『信じてよ』じゃなく、態度で示せ」
黒狸も口だけ動かしてりゃいいわけじゃあないよなと思い、頷く。部屋の中に入ったのはあれから一時間も経ってからだ。
テーブルを見れば、きちんと黒狸の分とキリシュの分、二人分の食器が並べられている。焼き豚は減ったカサをチンゲンサイで増やしてあった。
キリシュは黒狸を尊重してくれている。黒狸はどうだろう、彼の期待に何ひとつ答えていない気がした。
「こいよ兄弟、ハグしようぜ」
こうしてやればよかったんだろ? と腕を広げると、キリシュが調子のいい奴だという目をして、仲直りのハグを軽くするとあっさり離れていった。
「機嫌損ねっぱなしだね。俺」
何が悪かったの? と聞いていちいち教えてもらってもたぶん理解できない。キリシュもきっと説明するくだらなさを知っている。
「黒狸って回りくどいんだよ」
キリシュの抗議に苦笑いをする。そういうキリシュは何故一言、こうしてほしい、ああしてほしいと要望が言えないのだろう。あれこれ気を遣ってるはずなのにストライクではないと言われても、とてもナイーブなテーマだねとしか言いようがない。
背中には今もこう書いてある。
抱きしめて抱きしめて抱きしめて中略抱きしめて……。
こっちが態度で示すまでずっと背中にそう書いておくつもりだろうか。
「キーリ」
離れたはいいが、まったく次の用事が見つけられずに棒立ちしているキリシュに近づき、後ろから軽く抱擁した。
「寒かったです。背中くっついてていい?」
「ふざけんな、寒いんだよ」
冷えた体をくっつけているのだから当然っちゃ当然だが、何故か震えているのは黒狸のほうでなくキリシュのほうだ。
「許して?」
「許さねえ」
「わかった許さなくていい」
「はあ?」
キリシュが何がしたいのかと聞きたげな表情で振り返る。視線があったところで、試しに異能を使ってみた。
「許さないでいいから、俺のこと忘れずにいてほしい」
キリシュとかち合った目の奥へと、心のメスを差し込む。忘れないで、忘れないからと刷り込む。
「馬鹿だな」
まったく効かなかった。かすりもしなかったのが、自分の異能だからよくわかる。キリシュは黒狸の異能も知らなければ、今それを使用したことさえ気づいていないだろう。
「オレが二番目でいいよねみたいな扱いいつも受けてるのに、黒狸のこと忘れるなって? そんな失礼な男、忘れられるか」
もう何を言っても駄目なのはわかっていた。仕方がないので背後から抱きしめる力を少しだけ強くして「ごめんなさい」と言った。
反省してないだろという視線を向けられたけれども、とりあえずハグする手は緩めずにいた。背中から「抱きしめてください」のコールが消えるまでもうちょっと抱きしめておくべきだと思った。
先に羞恥心に耐えかねたのはキリシュで、「やっぱ、離れて」と小声で言われた。
そろそろ大丈夫かと思って両手を解放する。
キリシュは黒狸をもう一度恨みがましい目で見ると、床に敷いたマットに寝転がった。
それを見下ろして、さすがに女でない以上、ハグより先のことは無理だと感じた。黒狸の動揺を察してるようには見えないが、キリシュは「寝る」と言ってブランケットをごそりとかぶった。
「キーリってかわいいな」
「うるせえ。寝かせろ」
「ほんと、かわいい」
「寝かせろ!」
「飯は?」
「勝手に食べて」
苛ついた口調というよりは、やや恥ずかしがってまくしたてていると感じたが、確証は得られない。
「お前の言葉は茶番だ。信じられるか」
キリシュがそう言い切って、布団を頭までかぶる。
「茶番ですか……」
黒狸は否定できないなと思って、自分のベッドへと向かった。
痴話喧嘩ごっこ終了である。キリシュが茶番だというように、たしかに茶番劇だった。全力で茶番を演じたつもりだったが、急に虚しいなと感じる。
「ぶえっくし……」
今頃になってくしゃみをした。
ぶるっと体が震えたので、暖房を少し強くする。
(茶番ですが……茶番の何が悪いの?)
繋ぎ止めたいだけなのに。
ラストが傲慢だと言った理由がなんとなくわかる。全然反省していない自分がいるのだ。
懲りてない、一切懲りてない。
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