27 師走。走る――

 十二月の仕事はクソ忙しい。特に決算の時期、狐班の中でマネーロンダリング班の忙しさは格別だ。
  くたくたになってタイムカードを切り、紅龍会を出たところで声をかけられた。
「くたびれてるな。この時期狐はいつもそうだけど」
  この声はローレンスか。黒狸は振り返って、迷彩服の金髪男を見上げた。
  ローレンスは入社したばかりの頃、同じ班で行動していたことがある。彼は狼班を、自分は狐班を希望した。
  面倒見のいい性格の爽やかな美丈夫は、やっぱり忙しいからこの時間帰宅なのだろう。色々自分以外の雑用も引き受けてしまいそうなタイプだ。
「狼は楽でいいよな。は禁句だな」
「楽じゃあないことくらいわかってるだろ。まあ狐の勤務時間はマフィア? ってレベルだけど」
  狐はもうマフィアではない。ブラック企業の最たる象徴だ。ボスの鳳が「君たちは働くためにいるんですよ」と言うが、狐は働く以外の役に立つ方法がない。実戦では狼や番犬に劣り、知識では蛇や鴉に劣る。狐は働くしかない。働いて忠誠心を見せる他ないのだ。
  紅龍会の直接の収入源の大半は狐が管轄している。安心して他の班が動けるように、ひたすら働き続けることが狐の役割だ。
  小奇麗なオフィスと汚れた仕事をしなくて済むという代償は、それ以外のことをすべて引き受けるというものだ。
「たまには飲みに行かないか?」
  ローレンスがにっこり笑った。こいつはいつまでも悪意のなさそうな顔をしている。
  やさしい性格のローレンスに狼のような仕事が向いているのかは疑問だが、黒狸には狼班の血生臭さは耐えかねたものだった。
  たまには、お互いの話をするのもいいかもしれない。積もる話があるわけじゃあないが、ローレンスは素朴によい飲み仲間だと思う。
「ラリーと飲みに行くの久しぶりだな。入ったばかりの頃はけっこう行ってたはずなのに」
「班が離れてるとそんなものだろ」
「最近はいつも一人でマティーニ飲むだけです」
「おー洒落てるね。俺は最近ウイスキーかジン。酒代かかりすぎて早く酔っ払いたくてさ」
  相変わらずローレンスは酒豪のようだ。紅龍会近くにあるバーへ続く階段を降りる。
  青白いライトで照らされたカウンターで隣同士のスツールに腰掛けた。
  めいめいがお酒を注文する。ローレンスはただ酔っ払いたいとばかりに強い酒だけを何杯も飲んだ。
  彼の読む愛読のゴシップ誌の話を聞きながら、黒狸はマティーニのオリーブを齧った。
  ローレンスの口数が増えてくる。言う内容も多少極端になってきた。顔色は変わらないが、彼は今、気持よく酔っているのだろう。
「そういや、お前に弁当届けてくれた男いただろ。あいつたしか、この前スラムにいた」
  唐突に出てきたキリシュの話題に、もう種だけになったオリーブが指からこぼれ落ちた。
「いつのこと? 先月だよな」
「今月だよ。しかもなんか獲物探すみたいな目でふらふらしてた」
  どういうことだろう。そう考えるよりも先に、ローレンスはさらにこう追加した。
「俺も狼だからわかるよ。あれは獲物を探す目だった」
  ローレンスが酔っ払っているのか、それとも酔ったフリをして機密情報を教えてくれているのかはわからない。
「詳しく聞かせてほしいなあ」
  と言いながら、黒狸はウイスキーを彼のために注文した。
  キープしていたボトルから、自分のお気に入りの酒をローレンスのオールドグラスに注ぐ。
「キーリ、どんな顔してた?」
「顔、までは覚えていないけれど」
  注がれた酒を遠慮無く、美味そうに飲みながらローレンスは呟く。
「あれは昂揚しているときの顔だった。一人くらい、殺したあとだったかも」

 

 裏切られた、と素直にそう思えたなら楽だったのかもしれない。
  黒狸はむしろ当然だと思ってしまった。こちらが何ひとつ要望に応えていないのに、キリシュが自分の気持ちなど考えてくれるわけがない。
  キリシュが獲物を探しているのは殺すためだろう。もう既に何人か殺している可能性もある。
  手癖の悪い奴め、と叱ることはできるのかもしれないが、黒狸にはキリシュのその殺人衝動を責めることができない。
  猫にネズミを殺すなと言っているようなものだ。猫はそんな意味など理解するはずもない。ただ叱られたことを悲しく思い、しゅんとしている姿を見るだけで終わるのは無駄だと感じた。
  帰宅すれば、キリシュがルービックキューブで遊びながら顔を上げる。
「おかえり」
  疲れ果てた黒狸にキリシュが首を首をかしげる。
  キリシュが賢く自分を謀っているのはわかる。しかし気づいたとどう告白するべきか。
  キリシュがあざといならば、自分は何なのだろう。臆病で傲慢なだけか、それともそれを言い訳にした怠慢さか。
  キリシュは悲しい奴だなと思った。もう何を信じればいいのかわからないと感じた。
  自分は惨めな男だと思った。もう何を伝えればいいかさえわかっていない。

 翌日仕事をしている黒狸の携帯が鳴った。
  予想していたことだった。黒狸は通話ボタンを押す。向こうから半分怒りをないまぜにしたキリシュの声が聞こえる。
――おい、黒狸。起きたら足にリボン巻いてあった。なんだよこれ?
「足枷。出て行かないように」
  朝、本当は足にがっちりと何かつけてやりたかったが、それもあんまりだと思って、気づいているというアピールのために赤いリボンを巻いてきた。
――なんだって?
  キリシュの声は怪訝な雰囲気だった。それを無視して、黒狸はなるべくいつもどおりを意識して言葉を紡ぐ。
「キーリは賢いなあ、俺にお留守番していると勘違いさせてスラムに出歩くなんて」
  キリシュの返事はない。
  黒狸は一方的にこちらからの要望を押し付けた。
「家にいてください」
  電話を切る。これで出かけられたなら、もうそれはキリシュが黒狸を見捨てたと思っていい。お前の悲しみなど知らないと言われたなら、黒狸はそうですかと引き下がるしかないのだ。

 帰宅したとき驚いたことは、キリシュの足にまだリボンが巻いてあったことだ。
「まだ外してなかったの?」
「家にいろって言われてるからね」
  キリシュはすねている感じではなかった。何を考えてるかわからない。足首に巻かれた赤いリボンをいじっている姿は、毛糸で遊んでいる猫と少し重なった気がした。
  気に入っているわけでもないだろうに。
  黒狸はキリシュが指でくるくるとリボンの先を巻きつけて遊ぶ姿を横目で見ながら、残業用のディスクをノートパソコンに突っ込んだ。

 それから何日経っても、家に帰ればキリシュの足にリボンがついている姿を眺める日が続いた。
  自由を奪ったことを間接的に復讐されている気分になる。ごめんなさいと言うのも筋違いだし、自分で巻いたものを外せと言うのも何か違う気がした。
「自由を奪ってるよな。俺」
  ノートパソコンの書類に目を通しながらそう呟くと、キリシュがノートパソコンの蓋を静かに閉じて、黒狸のことを見下ろしてきた。
「そんなことよりオレに構えよ。仕事ばっかしてないでさ」
  カレンダーを確認すれば、もうすぐクリスマスだった。今月もキリシュを放置しっぱなしだったことを反省する。ルービックキューブ一つで待っていてくれるキリシュに何かお礼をしなければならない。
「今度買い物行くか。クリスマスも近いし、キーリの私物も増やさなきゃだし」
  眼鏡を外し、ノートパソコンを閉じたまま、デスクの端に追いやると、黒狸を見下ろしているキリシュを見上げた。
「何買いたい?」
  黒狸の質問に、キリシュが眉を下げる。
「考えたことない」
  本当に考えたことがなさそうだった。本当に必要なものしか買ったことがない人生だったのだろう。
「宿題。何が欲しいのか考えておいて」