28 クリスマス昼
窓硝子の外を覗けば、灰色の空だった。
「寒いなあ」
クリスマスなのに晴れていないようだ。この冷え込みようはひょっとしたら雪が降るんじゃあないかと思った矢先、服を着替え終わったキリシュがこう言った。
「今日雪降るって携帯に表示されてた」
本当に雪が降るようだ。
「本当かよ。厄介だな」
黒狸は、キリシュと入れ替わりに洗面台に向かって顔を洗った。
髭を剃って、歯を磨く。
最近年のせいか乾燥してきた肌にワセリンだけ塗ると、普段は少しべたつくそれは一瞬で肌に馴染んだ。
今日は乾燥注意報だな。そんなことを考える。
「キーリ、このまま買い物に出かけてランチ食べて、夜クリスマスを祝うでいいよな?」
「え? うん」
部屋着を洗濯機の中に突っ込み、久しく着ることがなかった私服に袖を通した。スーツと部屋着以外の服を着ることが最近では少なくなってきている。
「黒サンタに要求するものリストは書いたか?」
「書いといたよ」
キリシュはコピー用紙に書いたメモを黒狸に見せてきた。
ずらっと書いてあるリストに、「遠慮ねえ」と乾いた笑いが溢れる。
今日の買い物には二つの目的がある。
一つ。クリスマスの準備。
二つ。キリシュの私物を買う。
買い物カゴにどんどんと買いたいものを突っ込んでいくキリシュと、カートを事務的に押す黒狸。
カゴに突っ込まれていくものをさりげなく確認した。
歯ブラシ――青だ。
マグカップ――シンプルな白だ。茶渋がついたら落とすのが大変そうだ。
ブラシ――木製。静電気が嫌いなんだろうか。
以下略。たいていシンプルなデザインのものが多かった。
クリスマスの材料を買う段階になった。
ワインのコーナーには品の良さそうな奥様が美味しそうなワインを品定めしている。
毎年なら蝶恋が好きなワインを買ってくるのだが、今年蝶恋は黒狸宅に来ないようだ。
「今年は蝶恋来ないって言ってた。珍しく大役が入ったとかなんとかで。だからあいつの好きなワインである必要はない。キーリ、好きなの選んでいいぞ」
キリシュは困ったような表情をした。
「ワインの味なんて知らないんだけど」
「てきとーに美味そうだと思ったもんチョイスしろよ」
キリシュはワインの棚を見ると、迷わず白ワインを手に取った。
「じゃ、これ」
そのラベルのついたワインの値段を確認すると、かなりいいワインだ。
「高ッ!」
「美味しそうだった」
高いワインを選んだというより、本当に美味しそうだと思って選んだようだ。
まあキリシュが美味しそうと思うのであればきっと美味しいのだろう。クリスマスくらいマズいワインは飲みたくない。
次はチキンコーナーだ。
「チキンは照り焼きとレモンハーブならどっちが好き?」
「レモンハーブかな。黒狸は?」
「俺は焼き鳥にもタレつけるしチキンもタレついてるほうが好きだけど、まあ、たまにはさっぱり食うのも悪くないな」
「黒狸は少しこってりから遠のかないと太るよ」
「キーリはさっぱりから遠のかないと皮下脂肪低下で死ぬぞ」
案の定チキンコーナーはごった返している。
黒狸の好きな照り焼き風のローストチキンは人気のようだ。
無理して並ぶ必要もないだろうと思い、空いてるレモンハーブのほうをパックに詰めた。
買い物を終わらせて、重くなった買い物袋を下げながら自宅へと帰る。
冬のシエルロアは陽が傾くのが早い。だんだん暗くなっていく道のりを歩きながら、すっかりクリスマス気分の道行く人々たちの中でキリシュが浮かない顔をしていることに気づいた。
見上げると月は見えない。今夜辺り、新月なのだろうか。
「浮かない顔だな。クリスマスに悪い思い出でもあるのか?」
キリシュは自分が浮かない顔をしていたことに気づいたようで、無理やり笑顔を作ってくれた。
「あまりいい思い出はないかな」
「そうか……」
そんな時くらい、悲しいという表情をしていたって怒りはしないのに。
キリシュに無理をさせてしまっているのだろうか。黒狸は頭が少し痛くなった。
キリシュは元暗部なのだから、クリスマスにも人殺しぐらいしていただろう。
黒狸を殺しにきた以外にも、血なまぐさい思い出があるのかもしれない。
キリシュのことを考えると頭の痛くなることが多い。
それを忘れようとしている自分がいることも自覚している。
キリシュが黒狸の見たくないという感情を察しているだろうことも、なんとなくわかっている。
だけど黒狸にはどう直視すればいいのかわからなかった。
自宅に到着した。
ワインのコルクを抜いてチキンを皿に並べる。
チキンとワインだけじゃ味気がないので、カプレーゼのピンチョスを作り、買ってきたパンプキンポタージュを鍋で温める。温野菜をレンジで作っている間に、キリシュは自分の私物を棚に仕舞い終わったようだ。
グラスにワインを注いで、部屋の証明を少しだけ落とす。
キャンドルに明かりを灯すことそのものが去年のクリスマスぶりだった。
「何に乾杯しよう?」
椅子に腰掛けて黒狸がそう言うと、キリシュは当たり前のように
「クリスマスは神の子の誕生日だよ、黒狸」
と言った。そういえば彼は食事の前にお祈りをする習慣があった。
「じゃ、聖夜にかんぱーい」
黒狸はグラスを掲げて、キリシュのグラスとカチンと鳴らした。
キリシュの選んだワインは、驚くほど美味だった。
レモンとハーブだけで味付けされたもも肉は、ソフトで自然な味わいだった。
ゆっくり食事を楽しむ。
キリシュはワインが気に入ったようで、三杯目を飲もうとしていた。
「こんなゆっくりしたクリスマス久しぶりだな……」
食事を作るのに時間をかけたことがあっても、味わって食べることは久しくなかった。
キリシュはグラスで三杯目のワインを半分以上飲み干し、はぁと吐息をこぼした。
「黒狸は仕事しすぎだ。ちょっとはオレにかまえよ」
ふと、キリシュがこぼした愚痴に黒狸はまばたきをする。
おいおい、構えとかデレてるけれど酔っ払ってるんじゃないか? とキリシュを見る。
彼は四杯目のワインをあおってる。
「キーリ、飲みやすいワインだからってガバ飲みは……」
「へいりー……? オレのこと好きって本当なのか」
唐突すぎる、単刀直入な質問だった。
「え。何を唐突に」
しどろもどろに黒狸は言葉を濁した。
キリシュは酔っ払ってとろんとした目で、小さく、ひく、と喉を鳴らす。
「好きだからキスしたり押し倒したり、子猫ちゃん扱いしたり服買ってくれたりするのか?」
「え、うん」
返事がおろそかになったのは、次にくる質問に備えるためだった。
「でも黒狸、今まで一回もオレを抱いてくれてない」
「……」
どう答えろというのだ。押し倒したらもう歯止めは効きそうにない。
しかしキリシュはトドメの質問をしてきた。
「抱きたい?」
この質問にどう答えるべきか。
黒狸は息を飲んだまま、答えることができなかった。
はいと言っても、いいえと言ってもマズい気がした。
はいと言っても、いいえと言っても本心じゃあない気がした。
はいと言っても、いいえと言ってもキリシュは言うことを聞きそうな雰囲気だった。
が、しかし。
黒狸の返事を待たずに、こてっとキリシュは寝てしまった。
なんだか安心したというよりも、助かったという気持ちになった自分が情けない。
やれやれと呟き、キリシュを抱き上げてベッドに運んだ。
キリシュの額を撫でて、お休みのキスをした。
「へいりー?」
目を開けたキリシュが黒狸を見上げる。
黒狸の手首をつかんで
「逃げるなよ。さっきの返事、まだ聞いてない」
そう言って――
しかしその直後にまたくてっと寝る。
からかわれてる気しかしなくて、キリシュの言葉ひとつひとつに真剣に反応している自分が馬鹿みたいだった。
黒狸も同じベッドに潜った。隣で寝るくらいなんだという気になってしまった。
誘われたら、今度こそいただこう。
三度目の正直だ。
お互い服を脱いで、ベッドにもぐる。
体を重ねるとキリシュの体はやや冷えていて、顔を見ると頬は紅潮している。
髪の毛を優しく梳いて、眼帯の紐をほどいた。
額にキスをする。鼻にも、口にも。
お互い経験の数だけは多い。絡めた舌はどちらのものかもわからなくなるくらい、蕩けあい、縺れあった。
長い長いキスを交わしながら、黒狸の指がキリシュの肌を愛撫する。
鎖骨の間をいったりきたりしながら、女とは似ても似つかない精悍な肩を撫でる。
唇を離し、もう一度深く口づけて。
丁寧に目を閉じて感じ入ってるキリシュを見て、自分の体が熱くなるのを感じた。
――やめろ!
我に返るような拒絶の声が脳内に響いた。
――……殺してやる。
憎悪に満ちたキリシュの声。ラストに見せられた夢の中でキリシュを犯したとき聞いたあの声。
「黒狸……?」
気づいたらキスをやめていたようだ。
目の前のキリシュはとろんとした眼差しで物欲しげに欲情しているというのに、黒狸は余計なことを考えている自分がいることを自覚した。
(夢の中のあいつは俺じゃあない。俺なら……)
自分ならもっと優しくするはずだ。強姦なんていいと感じるはずがない。嗜虐的な趣味など持ち合わせたことがない。
黒狸はキリシュが気持よくなるようにと精一杯気を遣い、愛撫を再開し、キリシュの口内を舌で抉った。
キリシュは応じるように黒狸の舌の裏側へと舌をはわせる。
黒狸はキリシュのざらついた舌の表面を舐め上げて、舌先を吸った。
――ああっ!
脳裏に焼き付いたキリシュの絶叫は追い払おうとした。
乱暴したのはキリシュじゃあない、夢の中の誰かだ。
乱暴を働いたのは黒狸じゃあない、夢の中の誰かだ。
――殺してやる! 殺してやる!
脳内のキリシュの声は黒狸を罵倒していた。愛撫に集中しようとしても、その瞬間動きがぎこちなくなる。
――黒狸、あれはお前だ。お前はオレを犯したんだ。犯して悦んでた。気持ちが悪いあの欲望がお前の真実だ。お前は平気でそういうことができるんだ。
重ねていた唇を自分から離した。
唇が震えるのがわかった。
キリシュの泣きぼくろのあたりに、雫が落ちた。
雨漏りだったらどんなによかっただろう。黒狸は自分が泣いたことに気づいた。
「ごめん、俺今ちょっと混乱してる……」
キリシュの体の上からどいて、ベッドサイドに腰掛けた。
キリシュの視線を感じる。
「へいりー……」
懺悔したい。こんな夢を見た、こんなことを夢の中でした。
汚して犯して断末魔に興奮していた。
言ったら嫌われる。それが抱けない理由だって言ったらきっとキリシュは自分を許さないだろう。
「女々しいな、夢は夢だよ」と笑われるか、「最低だな」と冷ややかに言われるかのどちらかだ。
キリシュが黒狸の背中にぴったりと貼り付いてきた。
「俺が男だから、イヤなのか?」
「ちがう」
「そうだよな……」
キリシュが背中でほっとするような溜息をついた。
キリシュの腕が黒狸の首に回される。
「祥黒狸。憐れだね……」
フルネームで呼ばれて何が起こったのかと思った。
自分の首の骨が折れる音が聞こえた。
見上げた最期のキリシュの表情は、最初に見た暗殺者の彼そのものだった。
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