29 クリスマス夜
いやな夢だった。
黒狸は寝返りをうち、隣に寝ているキリシュを掻き抱いた。
いや、抱こうとしたては空中をむなしく泳いだだけだった。
しかも部屋がとても寒い。
エアコンを切って寝た覚えはないのだが? 疑問符が浮かび、黒狸は体を起こした。
ごう、とカーテンが風で煽られて、粉雪が部屋に舞い込んでいる。
窓が開けっ放しだ。
キリシュの姿を慌てて探すも、案の定どこにもいない。
コートもなにも持って行ってないことに気づく。
黒狸は慌てて家を飛び出した。
行き先はなんとなくわかっていた。
スラムだ。ローレンスが言っていた方向へと急いで走った。
スラムへの入り口は聖夜とは思えないほどしんとしていた。
普段ならばこんな日には寄り付かない場所、そこへ黒狸は迷うことなく入った。
深々と雪が降り積もるスラムは、それでも綺麗とは言いがたかった。
凍える老婆、煙草で暖をとる男、炊き出しのスープを奪い合うストリートチルドレンたち。
それらを無視しながら、スラム街を奥へ奥へと入っていく。
手当たり次第に「青い髪の眼帯の男を探している」というものの、無視されたり知らないと言われたり。
ここに来ていないのだろうか。
いや、そんなはずはない。黒狸の直感はそう言っていた。
「その兄ちゃんなら、さっき物騒な顔をしてあっちへ行ったよ」
ふと、背後から男が声をかけてきた。
彼の指差す方角は薄暗く、スラムの人ですら避けているようだ。
「ありがとう」
黒狸はお礼を言ってそちらの狭い路地へと入った。
背後で「礼金ぐらい払っていけ」と言われたが、無視した。
路地はボロい教会へとまっすぐ道が続いていた。ただしその教会からは死の臭いが漂っていた。
もしかしたら身寄りのない死体をここに放り込んでいるのかもしれない。
だとしたらスラムの人間に避けられている理由もわかる。
黒狸はその教会の扉をゆっくりと押して開けた。
古ぼけたステンドグラスから漏れる雪あかりに、見慣れたシルエットが一瞬見えた。
「キーリ?」
キリシュの動きが止まり、ふとこちらを振り返る。
彼は何かから手を緩めたように見えた。カハッと小さく呼吸する声に、それが女の子だということに気づく。
何をしようとしていた?
思わず問い詰めようとした瞬間、キリシュの姿が消えた。
いや、消えたという表現はいささか正しくない。ともかく黒狸はキリシュを一瞬見失った。
次の瞬間、壁に強く叩きつけられる。
黒狸の首を絞めているのは当然キリシュで、そして彼の指は黒狸を迷うことなく殺しにかかっていた。
首を絞めているキリシュの目は殺気立っていた。
しかし、だんだんキリシュの目が正気に戻っていくのがわかる。
目に正気が宿ると同時に、キリシュの顔が愕然としていた。
黒狸は喉に食い込む指が少しずつ緩んでいくのを感じた。
キリシュの眼の色が青くだんだん変色していく。
月色の目とは違う夜の藍は、グリードと入れ替わるときの合図だ。
「遅かったな。嘘つき野郎」
グリードはキリシュとは似ても似つかぬ声で低くそう呟くと、黒狸の喉に手をかけたまま、ゆっくりと緩めた。
急に呼吸できるようになり、思わず咳き込んだ。
肺を冷たくかび臭い空気で満たした。
「グリード?」
確かめるように名前を呼ぶ。
「お前がやったのか?」
ばかばかしい質問だが、そうであったらどんなによかっただろうという思いをこめてそう言った。
グリードはふっと嘲笑とも、諦観ともつかぬやるせない笑いを浮かべた。
「だったらホッとするのか? 黒狸。これはキリシュの犯行だ」
グリードは小さな木のベンチで人形のように動かない女の子を振り返り、そして黒狸を見る。
「キリシュはお前のかけた異能のおかげでお前を友達だと信じきっていた。そのくせお前が異能を中途半端に解除するもんだから、殺人衝動のほうも持て余しだした」
言っている意味がわからず、思わず黒狸は口答えをする。
「まてよ、オレ異能を解除なんて……」
言いながら、はっと気づく。
友達だと、今は思っていないことに気づいたからだ。
「恋にかわったら異能が解けました。なんて無様なことか」
グリードは肩を竦めて無様だとばかりに蔑んだ視線で黒狸を見下ろした。
「だからお前は嘘つきだって言ったんだ」
嘘を貫き通せるわけがない。グリードが最初の頃そう言ったのを思い出した。
言いたいことはいろいろあった。どれも言い訳じみてることに気づいた。
結局黒狸が悪いのだ。黒狸が撒いた種だ。そう言われてしまえばそれまでだ。
黒狸は動かない少女に目を向けた。
「ともかくその子を病院に連れて行こう。話はそれからだ」
グリードが呆れたような顔をした。
「お前はいつだってキリシュを後伸ばしだな。わかったよ、女の子の命を救えるならそのあとでもいい」
グリードは黒狸に興味が失せたように、気配を消していく。
夜色の瞳に再び月が昇ったかのような黄色。
グリードめ。キリシュに戻るならばこの手を解いてから消えてくれればいいのに。
黒狸の首に手をかけたまま呆然としているキリシュとじっと見つめ合った。
キリシュは慌てて黒狸の首にかけていた手を解く。
解いたあと、どうすればいいのか動揺しているキリシュの肩に、持ってきたキリシュのコートをかけて、首に巻いていた自分のマフラーを巻いてやる。
「黒狸? オレ、どうしたんだ?」
キリシュは自分がコートも着ずにこんなところまで来ていたことに気づいたようだ。
細かい説明は厄介そうだった。第一、女の子の命が危ない。
「どうもしてない。最初に会ったバーあったよな? あそこで落ち合おう」
そうとだけ言って、キリシュの前を通り過ぎ、女の子を抱き上げた。
キリシュはそれを呆然と見ていた。
キリシュを置いて、というよりもキリシュから逃げ出すように黒狸は廃教会を出た。
この時間やっている病院はかなり南のほうにある。
スラムを出て、タクシーを呼んだ。
「急いでくれ。急患なんだ」
女の子の顔色はもう白というより紫に近かった。
黒狸は自分のコートで女の子をくるんで、「死ぬな」と呟いた。
女の子の口が僅かに動いた。
病院について、女の子を看護婦に見せた。薄く脈があった。
クリスマスの夜に仕事をしている医者など少ないらしく、待ち時間の間に女の子は事切れていた。
「凍死ですね。可哀想に……」
ようやく番が回ってきたときにはそう言われた。
医者は悲しんでいるようには見えなかった。死んだ者より生きる可能性のある者に時間を使いたい。そういう考えが見え透いていた。
頭ではわかるが、なんとも言えない落胆がある。
「俺が殺しました」
思わずそう、黒狸は呟いた。
俺が殺した。俺が殺した。
頭の中でそうぐるぐる回った。
ネフリータのときも自分が悪かった。ヴィーラのときも自分が悪かった。
キリシュのときも、自分が悪かった。
「凍死ですよ。Mr.シィアン。ショックなのはわかりますが……」
医者は鎮痛な面持ちで、間をとった。言葉を選んでいるようだった。
「つらかったですね」
かえってきた言葉はあまりにありきたりな言葉だった。
しかし黒狸のせいではないと言われたところで、それが事実だったとして、黒狸自身納得するわけもなかった。
病院のほうで葬儀はお願いすることにした。
とぼとぼと居酒屋に向かう足が重い。
キリシュに会うのが憂鬱だ。
居酒屋の扉を開けば、中はいつもどおり騒がしい。祭り好きな一般人たちはここぞとばかりに騒いでいる。
「いらっしゃいませ! お一人ですか?」
ついこの前来た時も出迎えてくれた女の子が笑顔を向けてハリのある声でそう聞いてきた。
「連れを探している。青い髪で眼帯の……」
「ああ、彼ならば今日はいらっしゃっていませんが」
すぐに常連のキリシュのこととわかったらしい。
しかし、彼女が見てないということはキリシュは来ていないということか。
「まだ来ていない?」
「ええ」
女の子はにっこりと笑顔を作り、「先に注文承りましょうか?」とメニューを片手に言った。
「ありがとう」
丁寧に断って、外へと出た。
雪はかなり深く降り積もっていた。
滑らぬようにゆっくりと階段を降りて、自宅へと急ぎ足で向かう。
もしかしたら家に戻っているかもしれない。そんなかすかな期待があった。
だけど、部屋へ戻っても冷え冷えとした誰もいない空間が広がっていただけだった。
キリシュの姿はない。
キリシュの心はきっと凍えていた。
誰も迎えてくれない、寒々とした部屋の中に入った。
ずっと、キリシュはずっとこんなだったのかな。そんなことを考えた。
この寒さの中ならば、人殺しのあたたかさにさえ縋るかもしれない。
さっきまで晩餐をしていた楽しい形跡が目に入った。
イラッとしたのが自分でもわかる。
「こんなあたたかさいらねえよ!」
台所のゴミ箱へと皿ごとぶち込んだ。
食事を粗末にしたことなんてほとんどないが、知ったこっちゃないという気持ちだった。
キリシュを探しに行かなければならない。
だけどもし、全部自分のせいだと言うのならば、このままもう関係を絶ったほうがいいのではないかとも悩んだ。
キリシュの意思で消えたのならば……。
諦めたほうが早いのだろう。
未練がましいのは自分の悪い癖だ。深追いしたってお互い傷つくだけだぞ。
そう自分に言い聞かせた。
何度か冷たい部屋の中を往復した。
このまま、コートを脱いでしまえばいい。
部屋着に着替えたら億劫になって出かける気分なんて薄れるかもしれない。
いいや、それくらいで探しに行くのを諦めるようだったらその程度の想いしか抱いていなかったのだ。
黒狸は立ち止まった。
せめて、最後にキリシュの口から別れを聞こうと思って夜の街へと出た。
スラムにまだいるかもしれないと思ったが、先程の男からキリシュならば血相を変えてスラムの外へと出ていったと言われた。
イルミネーションの近くは恋人たちがたむろしていたが、その中にキリシュの姿はなかった。
居酒屋にももう一度行ったが、やはりまだ姿は見てないと言われた。
夜明けが近づく頃、体力の限界を感じて黒狸は自宅へ戻った。
キリシュの私物が増えた部屋で、その日のうちに必要なくなってしまった数々の物たちを恨めしそうに見つめた。
キリシュがいないならこんなもの必要ない。
年明けまでにキリシュがいないなら大晦日に捨ててしまおう。
ふとその時、この部屋で捨てられないものって何があるだろうと思った。
部屋を見渡せば、本当に捨てられないものなんてほとんどないことに気づく。
あんなに欲しかったものも、手に入れたら何の価値もないと知ることが多かった。
昔からあるもの……引っ越す前から、これだけはと自宅から持ってきたもの。
高校生の頃ゲームセンターで当てた、ミュウのぬいぐるみぐらいだった。
たくさんのモノに囲まれて、お前がどこにいるかさえ忘れていたよ。そうミュウの頭を撫でた。
「寂しい……」
思わず本音がこぼれた。
キリシュも同じようにどこかで寂しいと思っていてくれているだろうか。
それとももう黒狸とは会いたくないと思っているだろうか。
雪を照らす夜明けの陽はあまりに美しかった。
美しくて寂しかった。
朝がこんなに寂しいと思ったのは久しぶりだった。
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