30 大晦日付近

――飲み過ぎじゃないのか? 老師。
  翌朝、スラムにいる部下のレムから入った電話に黒狸はのろのろと出た。
  切りたい。今すぐに切りたいと感じながら、彼の用件を聞く。
「エルムがそっちにいる? 今迎えに行けない。雪積もってるし、年明けまで預かっていてくれないか。お前のこと信用してるしいいよな? 俺はノータッチでも世話できるだろ。必要経費はあとで支払うから」
  そこまで伝えると一方的に電話を切った。苛々しているのが自分でもわかる。
  部屋にキリシュの私物があふれているのに耐え切れず、思わず業者の電話番号を調べてかけた。
「整理屋さんですか? 部屋の模様替えをしたいんできれいさっぱり始末して欲しいんですけれども」

 冷蔵庫とミュウだけしかない部屋の床に、黒狸は仰向けに転がった。
  しばらく何もない生活に慣れよう。
  肺で大きく呼吸をして、溜息をつく。
  玄関のほうでガチャンと扉の開く音がした。
「黒狸? あんたどうせ大晦日だってのに部屋片付けてないんでしょう。蝶恋サマが片付けにきてやったわよ」
  頼みもしていないのに片付けにやってきた蝶恋は、部屋に入ってきて動きを止めた。
「何これ」
「掃除ならさっきした」
  床に転がったまま黒狸はそう答える。蝶恋は黒狸を見下ろして、聞いた。
「キリシュは? キリシュまで捨てたんじゃないでしょうね」
「捨てられました……」
「あっそう」
  呆れたとばかりに腰に手をあてて蝶恋は溜息をつく。自分だってこうなりたかったわけじゃあないと言いたかった。
「俺、欲張りすぎるんだろうなあ。最高を求めて最悪になる典型」
「何を今更。ほらほら、元気出しなさいよ。いくら振られたからってこんな部屋まっさらにすることないじゃない」
  蝶恋に叩き起こされて、無理やり体を起こした。
  かろうじてあった鍋でお湯を温めて、いっしょにどん兵衛年越しそばをすする。
  ひと通り食事がすんだあと、ゴミをビニール袋の中に押し込んで蝶恋は床に正座した。
「で、どうして振られたの?」
「俺の異能のせいで……」
「異能? あんたの異能が何なのか知らないんだけど」
「教えられない。でもそいつのせいで、キーリが大変なことになった」
「具体的に?」
  キリシュがホームレスを殺したとか、暗殺者だとか蝶恋に言ったらよくないだろうと思って口をつぐむ。
  かわりに今までの、キリシュがレイプされた事件や黒狸が告白したことなどを話した。
  クリスマスにキリシュと決定的に別れるような出来事があった、とだけ。
「ダウト」
  蝶恋はそう言った。
  彼女の異能は心音で嘘を見抜くというものだ。嘘をついた覚えはないが、真実ではない心音だったのかもしれない。
「あんた、キリシュのために何日仕事休んだ?」
「えっ……?」
「傷心のキリシュを置いてレイプの翌日も仕事に出かけたわけでしょ。殺人衝動の翌日も、キリシュがスラムをうろついていときも」
「うん」
「死ね。死んで詫びてこい」
  蝶恋は低い声で吐き捨てるように言った。
  これには黒狸だって反論したかった。
「だって仕事しなかったら誰がキーリを養うんだよ?」
「あんたにはコンビニでサエないバイトしつつキリシュのために時間を作る選択だってあったはずよ。仕事を選んだのはあんた、お金を選んだのはあんた、キリシュを選ばなかったのはあんた。OK?」
「納得いかねえ」
「ご勝手に。結果はもう出てるじゃない。キリシュはあんたに愛想尽かしたんでしょう?」
  答えられない。結果はもう出ていたが、それでよかったとも言えないし、これで仕方なかったとも言えない。
「今からでも迎えに行く気があるんだったらきちんと向かい合うことね。あんたのコネを使えばキリシュを見つけることだって、キリシュの過去に何があったかだって、なんだって手を回せるでしょう。こういうときに職権濫用しなくてどうするのよ? 何のためにお仕事してんの」
  蝶恋の言っていることは黒狸の仕事への感覚とまったくかけ離れていたが、黒狸はしばらくぽけーと彼女を見つめていた。
「蝶恋。お前の言ってることさっぱりわかんねーけど、職権濫用するわ。ありがと」
「そうよ。そういうときのために汚職はあるのよ。じゃあね」
  蝶恋は再三「今度こそ失敗しないでよ」と言って黒狸の家を出ていった。
  何が失敗の原因だったかもわからないのに失敗するなとは難しい話だ。