31 正月早々

 1月1日。
  蛇班の天才ハッカー、環(めぐる)に電話をしてラスト・エルムデンの連絡先を調べてもらうことにした。
「リンク、リンクたん。俺のお願い聞いてください」
――ちあげは何の用だよ? 今元旦の朝だぞ。
  向こうから眠そうな声で応答がある。ちあげはとはブラッドスワロウテイルという黒狸のてきとうにつけたHNのことだ。
  なんとなく蝶恋とボスの鳳兄妹をくっつければ最強のメンタルになれる気がしてつけたのだが、今じゃけっこう気に入ってる。
  リンクは環のHNだ。黒狸と環は主にいつもネットで連絡をとっている。
  連絡先を知っていても電話することは滅多になかった。
「軍にいる、ラスト=エルデムテンのメールアドレスを教えてくれ。金は弾む」
――ふざけんな。お前の薄給ごときで軍にハッキングかけろって? ああいいよ、どこにそいつは所属してるんだ?
  あれ。今薄給全部持っていくつもりでこいつ計算してる? そんなことを考えながら、環に知っている情報をリークした。

 小一時間ほどでメールが届く。
  ラストに「会いたい」との旨を伝えるメールを書いて、送信。
  断られても会いに行くつもりだったが、以外や以外、仕事が始まる前の3日ならあいているとメールで返信が。
  落ち合うためのホテルの予約をとる。

 1月3日。
  予約をとったホテルへと向かう。
  ラストの隣には従者が一人。
  キリシュにそっくりの見た目をしているが、その内容にふれようとする前にラストがこう言った。
「スペルビアが気に入ったのかね? よほど飼い犬が恋しいと見た。飼い犬に逃げられた無様な飼い主め、だからお前は春を待たず逃げられると言ったのだ」
「キリシュの過去を知りたい。何があったかつぶさに」
「ほう……」
  ラストは目を細めて、数歩近づいてきた。
  杖の柄で、黒狸の顎を持ち上げてにんまりと笑った。
「だんだんストレートに願いを言うようになってきたな」
  杖を押し返し、ラストを睨みつける。
  ラストは雑魚に睨まれても意味などないとばかりに涼しい笑みを浮かべた。
「私はたしかに過去を見せることが可能だが、本当にそれを望んでいるのかね?」
「ああ」
「後悔すると思ってるから聞いてるのだよ。無謀な愛の持ち主よ、勇敢な馬鹿者よ。過去を詮索したらキリシュが救えるとでも思ってるようだな」
「何もかもやり尽くしての最終手段だよ。何も知らないと、何もできない」
  ラストはおかしそうにクツクツと笑う。
「愚かだね。まだ何かできると思ってるようだ……」
  ラストが杖を振りかざした。殴られるのかと身構える。
「ならば、見せてやろう。お前の愚かな願いを――」
  振り下ろされた切っ先が、黒狸の額を叩いた。
  その瞬間、視界が真っ二つに割れて、現実世界と引き裂かれたのを感じた。

 

 白い白い空間につんざくような悲鳴が響いている。
  その声を悲痛だと思うより先にやかましいと感じた。
  いつも聞こえる声、いつもやってくるヘルプ、助け続けるのはうんざりだ。与え続けることにはもう飽きた。
  自分は餌やりロボットじゃあない。
  欲しい言葉がもらえないからといって腹を立てたあいつやあいつやあいつや、あいつ。そしてあいつだ。
  黒狸は悲鳴の方向へ静かに歩き出す。
  人ですらない黒い影たちに犬のように這いつくばらせて後ろから突かれている青年を遠目に眺める。
  いい光景だと思った。
  声が嗄れるまで泣けばいい。それぐらいで死ぬような男じゃあないのはわかっている。
  懐から煙草を取り出すと火をつけて眺めた。
  背中で手首を縛られた状態で後ろから前から、穿たれ抉られ吐瀉して汚物にまみれているキリシュを心底汚いと思った。
「やだ、助けて、黒狸助けて」
  ああ、うるさい。
  またこれだ。助けて助けて助けて助けて……。
  無償の愛を求める奴らは全員もらうことしか考えていない。
  煙草を吐き捨てて懐に手をのばす。
  殺した感触が欲しかったから獲物はナイフにした。
  あちらが気づいたら厄介だと思い、一気に走りだす。
  キリシュに夢中で気づかぬ人影の後ろからぶすりと、まず一匹。
  影は無数の蝿となって散った。
  顔にぶつかる不愉快さは興奮で気にならなかった。
  キリシュの髪をつかんでいる影の首を跳ねる。
  首は蝿に、胴体は腐り落ち、腐臭の池にキリシュの顔が落ちた。
  最後にキリシュの口を犯していた人影を刺し殺し、鬱蒼とした蝿の群れを払いのける。
  床には爛れた肉に顔を埋もれさせたキリシュがいた。
  革靴の先でキリシュの顎を持ち上げる。
「殺してやったよ、お望みどおり。汚れちまったじゃねぇか、どうしてくれる」
  顎を離してキリシュの反応をうかがう。
  何故そんな仕打ちを黒狸から受けるのかわからないという表情だ。
「きもちわりぃな。何そんな助けてほしそうな顔してんだよ?」
  キリシュの頬を足先で蹴った。
  けほっという咽る声、口の中に溜まった精液を吐き出した。
「人にいじめられるのは楽しいか? キリシュ。いじめられる姿がサマになってきたな。なあ、人に可哀想と思われるのは快感なのか? 慰めてもらってそいつに充実感を与えるのがそんなに楽しいか!」
  反論はない。
  けほっと小さく、篭った咳をして口の中にあるものを吐き出しただけ。
  まだ続くのか、まだ続くなら耐えようという諦めの表情だった。
  それに心底腹が立つ。この状況に甘んじる甘ったれた根性に。
「まだやるの? だっけ。まだ続くよ。ずっとな」
  吐き捨てるように言うと、キリシュの普段眼帯をつけている側の目から涙がこぼれた。
「嫌だ……嫌だ! ここから、だして!」
「まるで檻から出してほしいみたいな言い草じゃねぇか。ここから出られさえすれば幸せになれるみたいな甘ったれが」
「生きたくない……もう、生きたくない。だして、ここから、俺を出して! 終わりにしてくれよ!」
  カッとなってキリシュの肩を蹴った。
  そのまま仰向けにして腹を何度か蹴り飛ばす。
「死にたくないの間違いだろ?」
  死ぬのなんて許さない。
  お前は生きていてずっと自分の近くで可哀想な奴のままでいればいい。
「やめて……オレに呪いをかけないで」
  生き続ければいい。そして黒狸を呪えばいい。
  お前に生きる呪いをかけた黒狸を。
  そしてその呪いがお前の心を腐らせ、そして生きたまま苦しむのだ。
「死ぬことなんて許さない。お前を愛した母親はお前のために売女になった」
  自分には母親なんていなかったのに贅沢だとさえ感じる。
  母親の愛を信じきれずに家を出た馬鹿息子。
「お前の家族だった孤児たちは、お前のせいで狙われたのだから」
  しかも知らない子供まで巻き込んだ。
  シスター・イルマはお前に忠告したというのに、出来ると過信した結果がこのザマだ。
「オレのせいじゃない! みんな、ぜんぶオレ以外のみんなが、勝手にやったんだ!」
  まだ言うのか。お前のせいじゃあないと。
  自分は仕方なくやったんだと言うつもりなのか。浅ましい。
「お前が生きるために、殺した人間は何人いる?」
「……わからない。両手で数え切れなくなったら、覚えるのをやめた」
「その人間たちがお前と同じように生きたいと願ってたとは思わないのか?」
  そうだ。みんな生きたかったのに、仕方がなかったという理由で殺したのはキリシュ自身だ。
  選択したのはお前自身だ。
「知ってる。みんな、最後は殺さないでっていうんだ」
「最後はなんて言うんだ? なあ、キリシュ」
  わかっている。
  殺してくれと言うまで嬲るくらいのこと、キリシュならば出来ることくらい。
  キリシュは答えず、沈黙した。
「殺さないで」
  喉から絞り出すような声で、キリシュが命乞いをした。
「オレは……いきたい」
  そこまでして生きたいと感じるのか。そこまで動物なのか。
  食ってヤッて寝るだけなら誰だって楽だろうなと心底呆れた。
「殺すかよ」
  そのとき、何が起きたのかはよくわからなかった。
  うつ伏せのときは縛られていたことを確認していた手が、にゅっと姿を現し、キリシュはバネのように起き上がると黒狸を床に叩きつけた。
  叩きつけて首をぐいぐい絞めてくる。
  憎しみに染まった目で、生存本能だけで自分の呼吸を止めにかかってくる。
  抵抗する間もなく、視界がぼやけてきた。
  そうして霞んだ視界に映ったのは、キリシュの顔だった。
  生きてやる、生きてやる、生きてやる。
  どんなことをしても、殺しても、犯されても、体を売っても、闇に堕ちても、生きてやる。

 絶命した瞬間はよくわからなかった。
  そうしてしばらくして、自分が死んで体から離れたことを知った。
  黒狸の遺体にまたがっていたキリシュが、そっと下りた。
  それを狙ったかのように、床から闇が触手を伸ばし、キリシュの足や腕へと絡みつき、黒い黒い沼へとキリシュを引きずり込む。
「いやだ、いやだ、暗いところはもういやだ!」
  しかし肉体を失った自分にはもうどうすることもできない。
「助けて、助けて!」
  いっそ殺してやりたいと思うような悲痛な声。
  さっきまで憎しみに囚われていた自分が嘘のように、キリシュに手を差し伸ばしたが、虚しくそれはキリシュを貫通した。
「助け……」
  そうして、頭の先までキリシュは闇に飲み込まれた。
  黒い沼はそのまま床に吸い込まれて消える。
  後ろを振り返れば黒狸の死体があった。
  いつか土に還るだろう。
  足元を見れば先程キリシュがいた場所。
  こいつは闇に堕ちれば最後、死体さえ残らず跡形もなく消えるのだろう。
  誰にも見送られず、誰にも知られず、誰にも悲しまれず。
  誰にも助けられず……。