32 回想

 あの怒りが、憎しみが、助けてという声への煩わしさが、自分のものでなかったと言えるのかい?
  そう脳裏に響き、それが誰の声かもわからないうちに、今度は世界が暗闇に染まった。

 母、アイシャは美人だった。
  少なくとも、キリシュにとっては美しい母だったと記憶している。
  母は不器用で縫い物が苦手だった。母はともかく人並みの器量のものを探すのが難しかった。
  というのも、彼女がもともとはお嬢様だったから。
  幼少期、母親は場末の酒場で歌っていた。
  ホットケーキをいっしょに食べる時間だけが母との憩いのときだった。そうして母はそのあとすぐに、遊びに行くように命令してくる。
  キリシュは母が何をしているかも知らずに、外に飛び出す。
  ああ、過去の馬鹿な自分。
  幼いキリシュには母が部屋で客に体を開いていることなど知るよしもなかった。
  ある日、言いつけを守らず家に帰った幼いキリシュは、裸身でまぐわう母と客を見た。
  よくわからないがいじめられている。
  そう感じた自分はお母さんを守らなきゃといきり立った。
  客は激怒した。キリシュを殴ろうとした。キリシュのかわりに母親が殴られた。
「ふざけんなよ! お前くらいの女、どこにでも転がってるんだ」
  やめろ。やめろやめろやめろ。
  自分の母親をもう一度殴ろうとする客から母親を守ろうとして、近くにあったアイロンを思い切り客の足につけてやった。
  ジュッと音がして、男が悲鳴をあげる。
「ごめんなさい! この子は何をしているのかわからないの」
  お母さんはまたキリシュを庇った。
  お母さんはまた殴られた。母親に抱きしめられて、母親が殴られてる音を聞きながら、母親は小さな声で何度もキリシュにこう言った。
「大丈夫よ。我慢して、我慢してね」
  我慢するのよ。我慢するのよ。
  母親に抱きしめられたまま命じられた言葉は、キリシュの体を強ばらせた。
  母親の声を聞きながら伝わってくる母を殴る音は、やがて止んだ。
  母は客が帰ったあと、ホットケーキを焼こうとした。
  そして卵がないことに気づいた。
「お母さん、卵いれるの忘れちゃったわ」
  そう言っておっちょこちょいなお母さんを演じてくれたが、自分のせいで卵を買うお金がなくなったことをキリシュは悟った。
  ここに居ちゃダメだ……。
  幼いキリシュはその夜外に飛び出した。

 シスター・イルマは孤児が一人、いつのまにか増えてることに気づく。
「この子はどうしたの?」
「拾ったー」
  まるで猫を拾ったみたいに孤児の一人がそう答える。
「坊や、名前は?」
「キリシュ」
「家は?」
「ない」
「嘘おっしゃい。あるでしょ」
「もうない!」
  強く言い切ると、シスター・イルマはキリシュを見つめて
「じゃあ、今日から入間ファミリーの仲間入りだよ。キリシュ=入間」
  と呼んだ。

 

 貧しいが、幸せな暮らし。
  そんなものは存在しない。貧しさは人の心を殺す。
  母親のホットケーキほどの食事だって満足に食べられなかった。パンくずをふやかしてスープにして、みんなで分けて食べた。
  キリシュは13歳になっていた。そろそろ働けるかもしれない。力仕事だったら雇ってもらえるはずだ。
  そしたらここにいる子供たちにもっといい食事を食べさせてあげられる。

 仕事が見つかった矢先、孤児の集まる廃教会を潰すと都市開発部から立退き命令がきた。
  シスター・イルマは逆らうことなく
「全員散り散り好きに生きろ!」
  と言って最初に消えた。
  あんたは大人だからいいだろう。この子たちは捨てられたら生きてはいけないんだぞ。
  キリシュはシスターの言い分もわかったが、それでも許せなかった。この子たちを捨てては行けないと思った。

「立退き令に違反する者をしょっぴく!」
  外でアナウンスが鳴る。キリシュは子供たちに後ろに隠れるように言った。
「おとなしくどこかへ行きなさい!」
  どこへ? 鼻で笑ってしまう。
  キリシュは闇へと意識を沈めた。静かに、深く深く。
  シスターは言った。ヴェラドニア国には影を使う部族がいると。
  シスターはその血を引く女性だった。キリシュからも同じ香りがすると言っていた。
  影を、操ろう。だけどキリシュは影をどう動かせばいいのかわからない。
「動け、動け、動け、動けッ!!!」
  何をやってるんだろう。非現実的な力を使おうと躍起な自分。
  悪魔でも召喚すれば、もしかして勝てるかもしれないのに。
――呼んだか?
  本当に悪魔は居るんだなと、知った。
  影はこちらに語りかけてくる。
――俺を呼べ。俺の名はグリード。
「グリード! 子供たちを救ってくれ!」
――ああ、いいよ。イルマの血を継ぐ者。キリシュ……。
  扉を蹴破った軍人たちが、次々闇の中に食われていった。
  いや、食われたというのは違う。引き裂かれたのだ。刃物みたいになった黒い何かによって、軍人たちが引きちぎられていった。

「たった孤児の駆除のために部下が失われた。なんてことだ」
  そう呟いた赤毛の男は、まったく部下のことなど気にしちゃいない風だった。
  首謀者として突き出されたキリシュは、その赤毛を見上げる。なるべく媚びる仕草など見せずに。
「君が殺したのか。少年よ」
「俺が殺しました」
「データによると、影を操るそうじゃないか」
  男はキリシュの胸ぐらを掴みあげ、キリシュの目を間近で覗きこんできた。キリシュは睨み返す。
「イルマの血か……」
「だから?」
  反抗的につっぱねた。
「お前一人、私の駒になってくれるならば子供たちを殺すのをやめてやろう」
  返事に躊躇した。こいつの手に落ちるのは嫌だ。
「見たいなら見せてやってもいいぞ。お前の目の前で、縛った子供を轢き殺すショーが見たいならばな」
「やめろ!」
「君が自由になる方法もある。私の優秀な部下になればいい。私に気にいられるほどの優秀な駒になったら、自由にしてやってもいい」
  嘘だ。絶対嘘だ。
  だけど断ったら子供を轢き殺すと言われた。
  悔しさに顔を歪めたまま、キリシュは頷いた。

 

 軍学校というところはともかく縦社会だった。
  殴る蹴るは当たり前。いじめるこきおろすも当たり前。殺す、拷問じみた私刑も当たり前。
  華奢なキリシュはよくいじめられた。負けじと殴りかかった。
  自分は子供たちのために、弱い部下であってはいけない。
  優秀な部下になって自分もこの牢獄から出たかった。
  ヴィルフリートという士官学生と知り合った頃から、いじめはやや減った。生傷はたえなかった。悔し涙に濡れる日もいくつかあった。
  思えばこれが夏だった。
  このあとの寒さに耐えるための、短い夏だった。

 赤毛の男、ラスト=エルデムテン配下の暗部に入った頃から、徹底的に異能を強化されだした。
  キリシュの異能は暗闇に溶け込むと自分の気配を消せるというものだった。その対価は自分の意志が薄弱になるというもの。
  毎日独房に入れられた。独房の中で暗闇に慣れさせられた。
  意識が朦朧としてきた頃、いきなり入ってきた男たちに縛られて、集団に犯された。毎日犯された。何度も犯された。
  もう自分の性器が腫れ上がってることなんてどうでもよかった。
  こいつらを殺してやるという殺意に満ちていた。
  あざ笑ってる声全部を刻銘に覚えた。
  この独房を出たら、殺してやる。
  喘がされ、鳴かされ、苦痛だけを刻まれて、屈辱だけを舐めさせられて、誓ったこと。それは――。
  復讐に生きてやる。

 やがて独房から開放される日が来た。
  独房から出てきて最初に入ったのは太陽の暖かさだった。
  もう冬だったと思う。朝の薄日がやたら眩しく感じ、光にすがるように、うっすらと目を開いた。
  ああ、もう自分はこの光が限界だ。
  夏の光に焼かれたらもうダメになる。夜に生きるしかないのだ。そう覚悟した。

 初めての暗殺の仕事は楽しみだった。
  暗殺対象は教会を襲った軍人だ。
  別に殺す必要もない相手だったし、彼が義務から教会の立退き命令を実行していたことくらい知っていた。
  だが、キリシュは殺人に対する罪悪感よりも、復讐を遂げる高揚感で初めての人殺しを、躊躇なく、実行した。
「楽しかったかい?」
  帰ってきたキリシュにラストがそう聞いた。
「ええ。マスター」
  キリシュは憑き物が落ちたかのように微笑んだ。ラストは満足そうにニヤリと笑った。
  暗部であること、何をしているかは部外者に漏らしてはいけないと口止めされた。
  生きることで世界に復讐したかった。ネジが何本かはずれてきたことに気づいていたが、自らゆるめた。
  誰か自分を責められるのか? これだけの悪意にさらされて、人を愛せと言うつもりだろうか。それでも悪いことはいけませんと、母は言うだろうか? シスターは言うだろうか?

 クリスマスの夜に女を殺した。
  おかしいな。男の名前で命令がきていたはずなのに、何故か女を殺してしまった。
  なんだか違うものを殺した気がしていたが、気にするのも馬鹿らしかった。
  そのまま賑やかな通りに戻った。
  イルミネーションと、幸せそうな子供たちと、愛しあう恋人たちと、ケーキを売るサンタクロースたちの間を縫って、歩く帰り道。
  クリスマス気分を味わいたくて、チキンを買ってみた。
  チキンを貪りながら、さっき殺した女のことも考えた。
  あいつも食べたかったのだろうか。もう食べられないだろうけど。
  殺しの高揚と相まって、大変美味しいチキンだった。
  骨だけになった鶏を見て、お前も死ぬために生まれてきたなんて思わなかっただろう。そんな一瞬の感傷にひたって、ゴミ箱に骨を投げ捨てた。

 ラストから来る殺しの仕事は楽しかった。
  自分をいじめた奴を、犯した奴を、愛した人を苦しめた奴を、殺していいと言われていた。
  そしてラストは何度もこう言った。
「殺して気持ちがよかったかい? キリシュ」
「ええ。マスター」
「これは正しいことだ。お前が死ぬのを許さない」
「はい。マスター」
「死ぬくらいなら殺せ」
「はい。マスター」
「殺されるくらいなら殺せ」
「はい。マスター」
「殺せ、殺せ、殺せ」
「はい。マスター、殺します」
「ではキリシュ、お前を独房で犯した男たちのリストを渡そう。もちろん殺すだろう?」
「もちろんです。マスター」
  渡されたリストに高揚した。
  ああ、自分の鬱憤をぶつける相手がいるってどんなに素敵なことか。
  そのリストの中に、ある資産家の名前がまぎれていた。
  キリシュはそれが自分を犯した者と違うと薄々気づいていたが、そのことを考えるのをやめた。
「殺していいんですよね? マスター」
  もう一度確認を。
「もちろんだ」
  ラストの指示は明確だった。よし、殺そう。
  すごく簡単にそう決意した。全員殺そう。

 資産家一家を惨殺したとき、自分の下に転がる少女を見下ろした。
  彼女が、何か、自分に何か、しただろうか?
  とつとつと、自分に繰り返し問いただす。
  問いただそうとすると思考がストップする。
  だって、殺せって言われたし。言い訳したい。
  でも、この子はまだ子供だ。お前が守りたかった孤児と同じ年齢じゃあないのかい?
  頭の中で何かが爆ぜた気がした。
「うわあああああああああああああああああ!!!!」
  キリシュ=入間が発狂した軍人として捕まったのはその日だった。
  ラストに用なしと判断され、意味のない殺人をさせられたこと、それを理由に公開処刑されることが決定したことなどに気づいたのは、拘置所の中でだった。

 

 軍学校時代、ずっと世話したりされたりしていた後輩がたまたま番人だった。キリシュはありったけの力を使って逃げた。影に入りこめば誰も自分を追うことはできない。
  闇へ、闇へ、闇へ、闇へ、暗いところへ、暗いところへ、暗いところへ、夜へ、夜へ、夜へ、夜へと逃げた。

 気づいたら、医務室のベッドだった。
「おはよう。僕はルリエナ。君は?」
  医者はこちらに笑みを作り、キリシュはその時初めて、自分が逃げ切ったのだと知った。

 

 抑圧されることない、生きた心地のする空間に出たのはどれくらいぶりだっただろう。
  命令のない、強制されることのない人生を、初めて歩みだした。
  ギルドリーダーのキールがかくまってくれると言ってくれた。
  キリシュはギルドに住み込んで、たまに外にでて働いた。
  外は明るかった。ギルドも明るかった。
  明るすぎて居場所などないと言われてる気がした。
  それでもすごく心地よくて、控えめにもし自分の居場所があったら……そう感じた。
「キリシュ先輩、また痴漢にあったんです?」
  ジュリオはキリシュによくしてくれた。
「しっかりしてくださいよ。元軍人のはしくれならば」
  ジュリオに対して、控えめに笑った。
  もう軍人じゃないよ。もう、誰の部下でもない。誰も殺したくない。
  このままこの光の中に置き去りにしてほしい。
  夜が居場所の自分に、光の中に居場所などないけれど。

 

 ある真夏の直射日光の中、銀髪の男とすれ違った。
――殺さなきゃ。
  だけどその衝動は声にならない。
  よくわからない焦る気持ちに、追いかけなきゃと思った。
  あいつは何か知っている――。
  この焦りの気持ちの正体を絶対しっている。

 その男は黒狸と名乗った。キリシュのお友達なのだと。
  昔キリシュに助けられたことがある、マヌケなマフィアなのだと。
  困ったときは助けてやるよ。あんたが助けてくれたように。
  キリシュは初めて、友達だと言ってくれる人に出会えた。
  キリシュは初めて、笑い合える友達が手に入った。
  失いたくない――。
  黒狸はいつでもチャラチャラしながら、おやじくさいセクハラまがいのジョークを飛ばし、そして優しく「友達だろう?」と言ってくれた。
  その男は薄ら明るかった。そして薄暗かった。
  独房から出てきた時に見た、冬の太陽のようなうっすらとした暖かさだった。
  強い光の中に居場所なんてなかった。
  暗い夜の中の居場所なんて捨ててしまった。
  この薄ら明るさにすがりたかった。
  この男なら、理解してくれるかもしれない。
  今まで言えなかったあれやこれや、いつか、本当に心から友達だと思えた日に、懺悔しよう。
  彼は聞いてくれるだろうか。彼は笑うだろうか。彼は泣くだろうか。
  黒狸は「よく生きていてくれたね」って言ってくれないだろうか。
  友達は「会えてよかった」と抱きしめてくれるだろうか。
  何人も殺した手と握手してくれるだろうか。
  もう殺さなくていいと、強く握ってくれないだろうか。

 

 

 目が覚めたとき、自分の目から一筋の涙がこぼれていることに黒狸は気づいた。
「わかったかね。お前がどれだけ残酷だったかを」
  ラストの問いに答えることができなかった。
  それどころか、椅子から立ち上がることさえかなわなかった。
「あまりに苦しい夢で腰が抜けたようだ。スペルビア、彼を送ってやりなさい」
  ラストは手短に、隣に居た部下にそう指示した。
  黒狸を担ぎ上げるスペルビア。
  黒狸は腰にも足にも力がはいらなかった。

 車から降りるときも腰がたたなかった。
  スペルビアはまた掴みあげて、エレベーターに黒狸を乗せる。
  黒狸の財布から鍵を取り出し、黒狸の家をこじあけて、中に黒狸を放り込む。
「神経過敏な愛で人が救えましたか? 祥黒狸」
  スペルビアの声が聞こえてるが、何も言えない。
「中途半端に愛さないでくださいよ。可哀想じゃないですか、キリシュが」
  吐き捨てるようにスペルビアはそう言うと扉を閉めた。
――中途半端に愛さないでくださいよ。
――可哀想じゃないですか、キリシュが。
  なんて、キリシュに希望を持たせて、壊すみたいな真似をしたんだろう。しかし自分に何が出来たかもわからなかった。
(キリシュ……ごめん)
  ごめんと口を動かそうとして、なんだか自分の報われなさで涙がこぼれそうになる。
(俺は悪くないよ。俺が悪かったよ。)
  混乱しているのが自分でもわかった。目を閉じた。
  眠ろう。ぐっすりと――。