33 年明け仕事開始

 朝。
  床で目が覚めた。
  一月の床なんて当然冷え冷えとしていて、当然、体中が痛い。
  ふらふらになりながらシャツを着替えて、そのまま痛い体を引きずって出勤する。
  仕事場にいつも先に来ているエルムがいないことに気づいて、ずっとエルムを放置していたこに気づいた。
  車を走らせてエルムをスラムまで迎えに行く。
「レム、ずっとエルムの世話を任せてて悪かったな」
  集金係のジェレミアはこちらを三白眼で睨みながら、エルムの肩をこちらに押し付けてきた。
「そんなことより、エルムレスさんを病院に連れて行ってやってくれよ。雪が溶けるまで何もできなかったんだ、化膿してるかもしれない」
  黒狸はエルムを見下ろした。エルムはきゅっと黒狸のシャツをつかみ、胸に顔を埋める。
  何かされたんだろうか。
「エルム、行こうか」
  エルムに笑おうとしたが、笑顔が作れなかった。
  ああエルムがかたくなな理由もこんななのか。
「エルム、ごめんな。俺無神経だった」
「何を今更。忙しかったんですよね」
  エルムが渾身の強がりで黒狸を突き放し、そのまま車のほうに向かった。いつもなら追いかけることができるのに、黒狸はエルムを追いかけることができなかった。
  もう自分の中の何が相手を傷つけるのかわからなくて。
  もう何を信じてどう愛すればいいのかわからずに。

 

 暗闇が怖い、人の視線が怖い、朝になるたびに夜のことを考える……。
  神経過敏さは時間とともに次第と落ち着きを取り戻しはじめたが、無傷ではなくなった心は人を今以上に気を遣うようになった。
  今まで仕事をずぼらにしていた上司がエルムを執拗に気を遣うので、エルムは少し居づらそうだった。
  だけど黒狸だってどうすればエルムにうまく接することができるのかわからないのだ。
  ただ傷つけたくないだけだ。ただ傷つけられたくないだけだ。
  自分が保守的になっていることには気づいていたが、どうやっても積極性は出すことができなかった。
「あなたは過去最低の上司でしたけど、随分変わりましたね」
  エルムはややこれでよかったのかどうかわからない。そんな表情で台詞を吐く。
  あなたは過去最低の上司でしたけど……。
  ごめんなさいごめんなさい。
  これから変わりますと言いたかった。だけどどう変わるべきかなどわかるわけもなかった。
  何かが内側で壊れている。そう黒狸は感じた。
「誤字、ありますよ」
  エルムに注意されてもどれが誤字かわからなかった。
  世界があるようでなく、ないようでリアルだ。
  エルムはしばらく待って、黒狸の手前にあったキーボードを打ち直し、
「しっかりしてください!」
  と怒鳴った。向こうが苛々していることなどわかってる。
「ごめん……」
  思わず心から謝った。
  それがエルムを失望させたような表情にした。いや、彼女は泣きそうな顔をした。
「黒狸さんは変わってしまった……」
  何をやっても失望しか重ねられない。
  もう何も与えられない。もう何も持っていない。
  いいや、自分は泥棒なのだ。人から盗んだものを誰かにあげて英雄気取りだったねずみ小僧。
  もともとこそ泥がいい気になっていたのだ。
  誰かを助けられるかもしれないなんて、傲慢になっていたのだ。

 やっとこさ、平常心を取り戻した一月下旬。
  黒狸が公園でココアを飲んでいると、目の前をクロスボウが通過した。
  動かずにいてよかった。
  振り返るとジュリオの殺意の目。
「ジュリオ……」
  思わず、クロスボウのことを忘れて、ジュリオに聞く。
「キリシュがどこにいるか知らないか?」
  その言葉にジュリオはブチ切れたようだった。
「あなたのところへ帰すと思うんですか?」
  ジュリオの言葉は刺々しかったが、彼に対しての怒りは湧かなかった。
  かわりに普段ならなりを潜めている罪悪感が自分の中で胸をちくりと刺した。
「俺の元に戻ってくるとは思ってないけど。もしジュリオのところにいるなら、元気にしているかだけ知りたかっただけだ」
「あなたに監禁されたせいで目から生気がなくなってました。心の底から反吐が出たのは久しぶりです。あなたにも倫理道徳の感情のひとかけらくらい、あなたにも残っていると思っていたんですがね。死ねばいいのに、少しだけシエルロアの空気が綺麗になる」
  通行人たちが遠のいていくのがわかる。
  マフィアとクロスボウもった人に関わってはいけないとばかりに、そそくさと逃げていく。
「死ぬなあ……」
  黒狸は呟く。考えたこともなかった。
「シエル・ロアの空気を少しだけ綺麗にするために貢献したいなら、今すぐそのこめかみに向けて引き金を引くといい」
  ジュリオの目には憎しみが宿っていた。
  これは自分に向けられたものなのか、それとも彼の憎悪するマフィアへか、それとも軽蔑すべき行為全体への憎しみか、それともやっぱり黒狸への憎悪なのか……。
(お前は俺が憎いのだろう。だけど俺はお前の真っ直ぐさがすごく好きだ。)
  それすら伝える機会はないだろうけれど。
「ジュリオ、いつでも全力で愛するお前に聞くけどさ、精一杯やっても報われなかったら、お前はさらにがんばるって言うだろうけど、本当に何ができたんだろうな」
  ジュリオの目にさらなる苛つきが宿るのはわかっていたし、これはただの管巻きでしかないことに気づいてた。
「色々傲慢だった」
  黒狸は謝罪のつもりで呟いた。
「そのとおりですよ。あなたは害悪だ」
  と言われた。返す言葉など、何もない。自分は害悪だ。