34 キリシュとの再会

 最近、仕事中のエルムが荒れている。
  どうしたの? と理由を聞けずにいるが、薄々何があったのかわかるようで。だからそっとしておこうと思った。怖くて怖くて聞けなかった。
  仕事場でエルムに甘えるわけにはいかない。
  自分にできることだけを淡々とやろう。
  誰かのためになんて誇大妄想はやめて、自分のためになんてエゴイズムな気持ちもかき消して。
  何も信じられなくなったからといって、何も出来なくなったわけじゃないし、何も分からなくなったからといって、何かが変わったわけじゃあない。
「エルムさん、お帰りですか?」
  いつもより早く帰る準備をしているエルムにそう質問する。
「恋人が待ってますから」
  エルムは「恋人」と攻撃的に発音した。
「そうか。ゆっくりしておいで」
「黒狸さんは残業でもしててください。私は恋人とエロいことしてきますから!」
  バン! と扉が閉まる音。
  エルムが乱暴に閉めた扉で窓ガラスが揺れた。
  黒狸は暗くなりかけた事務所の中で、エルムの自棄っぱち具合に心配を募らせた。
  どうしたの? と聞くべきなのだろう。
  聞けない。怖くて聞けない。彼女には絶対よくないことが起きている。
  自分のことでいっぱいの時に、聞くべきじゃあない。

 ようやく仕事を終わらせて、家に帰ると、玄関の前でキリシュが膝小僧を抱えて座っていた。
  なーう。
  猫が待ってるような仕草で首を伸ばし、こっちを見つめるキリシュ。
  奥様の飼ってた青い猫と重なるビジョン。
「へいりー」
  猫が目の前に居たような気がして、だけどそれはキリシュだった。
  黒狸は今でもキリシュを目の前に混乱している。
「キーリ」
「黒狸。待ってたよ」
  キリシュがうっすらと微笑みを作った。
  黒狸。待ってたよ。
(置いていってよかったんだよ。俺のことなんて。)
  置いていってよかったんだよ。のろまな祥黒狸のことなんて。
 

 キリシュを家に迎えて、電気をつける。
  殺風景になった、ベッドしかない部屋を見て、少しキリシュはぎょっとしたようだった。
「何話そうか……」
「うん、えっと……あいつが術解いてくれた」
  あいつって、たぶんラストのことだ。
  黒狸は答えることなく、インスタントコーヒーとコップを二つ用意した。
「もう黒狸殺さずに済むよ」
  だから何だと言うのだろう。
  キリシュはまだ自分にうんざりしてないとでも言うつもりか。
  これだけのことをした祥黒狸に、まだ優しくできると言うつもりか。
「だからといって、あんたが友達じゃあないこともわかっちゃったけど」
  そうだろう。黒狸とキリシュは敵同士だ。友達じゃない。
「なんとか言えよ。オレだって辛かったんだから」
  何を言えばいいのかわからない。
「いいよ、もう終わったんだろ。帰る」
  そう言って踵を返しそうなキリシュの手首を引き止めて、思わずその手首を見つめる。
  思わず掴んでしまった。自分はキリシュに帰って欲しくなかったのだ。
「ラストから全部見せてもらった。そんなのキーリは望んじゃいなかったかもしれないけれど」
「全部? あいつからオレの全部見せてもらったのか」
  黒狸は頷く。
  キリシュはうっすらと目を細めて、小馬鹿にしたように笑った。
「へえ。じゃあわかっただろ、オレが光じゃなあいことも、綺麗じゃあないことも」
「何を言っても変わらないと思うがな」
  一呼吸置く。
  もう何を言っても無駄ならば、いっそ真実を言いたい。
「今でもすごく綺麗に見える」
「……はぁ?」
  キリシュ顔をしかめる。
「黒狸、寝ぼけてる? オレ、人いっぱい殺してたんだぞ。悪い奴ばかりじゃあなかった。なのに殺すの気持ちよかった。その気持ち全部覗いてきたんだろ?」
  キリシュは今でも罪悪感なんて感じちゃいない。
  キリシュは今でも人殺しをなんとも思っちゃいない。
  黒狸を殺すことだってなんとも思っちゃいないかもしれない。
  それでもキリシュ=入間が好きなのか? そう質問された気がした。
  ああ、好きだよ!
  そう答えたかった。
  大嫌いだよ、お前の信じていること全部。
  大好きだよ、お前の守りたかったこと全部。
「同じ気持ちになれたのか? 殺して楽しかったのか、黒狸も」
「……楽しかったかもしれない」
「へえ、そう」
  キリシュは口を歪めて、手首を振り払おうとした。それでも強く掴んだ。
「でもやっぱり俺は俺だ。キリシュのようになっていたかもしれないけれど、キリシュとは違う」
「そりゃそうだ。あんたのままでいいよ」
  黒狸はキリシュと見つめ合う。
  引き止めておいて、どう声をかけるか迷った。
  もう傷つけないでいられるなんて保障はないなと思って手を離した。
「黒狸。オレ、あんたがいいって言うなら……」
  キリシュがそう言いかけた。
  そのタイミングで、電話がかかってくる。黒狸は思わず電話に出る。
――たぬちゃん、最悪のお知らせですよ。ヴェラドニア歌劇団の玖蝶恋にマズい場面を見られてしまいました。あなたなら始末できるでしょう、殺しておいてください。
  黒狸は上司の鳳からかかってきた殺人命令に、思わず息を飲む。
  キリシュを見る。キリシュはこちらを見て首をかしげる。
――返事はどうしました?
  上司はいつものやんごとなき口調でYESと言えとばかりに追撃してきた。
「わかりました。後日その件については始末しておきます」
――それだけですよ。時間外に悪かったですね。失礼します。
  電話が切れる。
  黒狸は受話器を見つめて、キリシュを見た。
  蝶恋だけじゃあない。キリシュを殺さなきゃいけない日が、自分にだって来るかもしれない。
「キーリ、帰れ」
  沈黙。キリシュは何を言われたのかわからないという顔だった。
  だけどそれが拒絶なのだとわかったようだ。
「わかった」
  キリシュは壁を思い切りドン! と殴りつけ、扉を乱暴に開け放ち、外に飛び出した。
  荒々しく閉まる扉。
  初めて仕事がイヤになって携帯シンクの中に放り込んだ。
  栓を閉めて、蛇口をひねる。
  水の中に沈んだ携帯が、こっちを見つめているような気がした。
  黒狸、お前は何をやってるの? そう携帯が水の中からこちらを笑っているような気がして。
  そして自分が今現在、自分を見失ってることに気づいた。
  携帯に名前をつけたからといって、携帯の気持ちになったらおしまいだ。
  自分と誰かを切り離さなきゃ。
  自分に戻らなきゃ。
  黒狸はもがけばもがくほど、黒狸自身から遠のいていった。
  黒狸を見つめるもう一人の黒狸が自分を笑っている気がした。
  水の中にぷかぷか浮いた携帯が、黒狸を見つめていた。
  黒狸が水の中にぷかぷか浮かびながら、黒狸を見つめていた。