36 母の手紙

 蝶恋がヴェラドニア歌劇団をクビになって、場末のバーで今は歌っているというのはスキャンダルとしてすぐに耳に入った。
  だからといって、確認しに行く気にはなれない。することもできない。
  嫌なことは立て続けだった。
  愛してくれた父が死んだ。死に目に会うこともできずに。
「父はどうして死んだのですか?」
  元々黒狸より上層部に居た父が死んだ理由を鳳に聞いた。
「彼は立派でしたね」
  鳳が彼を殺したわけではなさそうな雰囲気で。
「あなたの宝物を何もかも取り上げる上司だったら憎めたんでしょうね。たぬちゃん」
「そうですね。優しい上司でした」
  口がひくつく。今回ばかりは鬼上司と言いたかった。
「たぬちゃんは昔、自分の忠誠の証に蝶恋を人質にって言いましたよね?」
「言いました」
  言った。どうでもいいと。その時ばかりは心から。
「ならば殺してよかったですよね? まあ、あなたは慈悲深かったようですが」
  そうですね。そう言えなかった。
「もう兄と呼ばれることがないと思うと少し残念ですが、まあ彼女の兄になったつもりもありませんし」
「鳳サン、俺さー、お父さんがどういう死に方したの? って聞いたんですけど」
  蝶恋の話を聞き続けることに耐えられず、父の死にすり替えた。
  しかし父の死もあまり聞きたくない。
  聞きたいけれど聞きたくない。怖くて怖くて。また自分が何かしたんじゃないかって、それだけが怖くて。
「彼は、軍に殺されました。重要な情報を一切しゃべらないまま死んだみたいです。だから立派だったと言ったのです」
「そう……ですか」
「酷い死体を息子のあなたに見せるようなひどいことはしません。手厚く埋葬しました。この紅龍会に珍しい誠実なマフィアでした。たぬちゃん、彼のような男に成長するといいですよ」
「お断りしますよ、鳳サン。俺は……」
  父のように、立派にもなれなきゃ、家庭を大事にもできない。
「俺は、俺以外になれません」
「麒麟から狸が生まれたんですね。たぬちゃん」
  小物だと笑ってくれていっそ助かった。大物を期待されるよりずっと負担にならないから。

 父が死んで遺品を整頓することになった。
  雪狐は蝶恋との一件で口を聞いてくれない。
  葬儀は雪狐がやると言っていたので、遺品の整頓は黒狸がやることになった。
  荷物を片づけながら色々回想する。
  父は自分以上に家に帰らない男だった。おまけに母親は自分が小さな頃に死んでいた。
  なのに寂しいと思ったことが黒狸にはなかった。
  黒狸が左利きなのを見て
「クールな男は右も使えるんだぞ」
  と言ってくれたのがきっかけで両利きになれたし、
「黒狸のごはんは美味しいな。何が作れるようになった?」
  と言ってくれて料理が上手になったし、
「お前の努力で解決できないことを言う女の子のことは忘れなさい」
  これはアマリネ=リリーザにマフィアの子だという理由でふられたときの言葉だった。
「黒狸、時間はかけてあげられないが、愛してるよ。お前はお母さんに似て、とてもやさしい子だ」
  優しいのか? お母さんはどんな人だったのだろう。
「お前はお父さんにも似た。器用なところはお父さん似だ。きっとモテるぞ」
  失恋王です。お父さんにも失恋ソングがありましたか? お母さんをどうやって落としたのでしょう。
「黒狸、お前を愛してるよ」
  何度も言ってくれた。知ってる。言われなくても伝わってきた。
「雪狐の面倒をお前に押し付けてばかりですまんな」
  そう言ってよい兄だと褒めてくれた。弟も父も好きだった。
  家族。雪狐と口をきかなくなった。父と母はどちらも死んだ。
  弟を鳳に差し出したくなくて、思わず蝶恋を人質にと言った。
  そう言ったところで潔癖症な弟は
「役立たずな僕が死ねばよかったんだ」
  と言うのだろう。想像したら涙がにじんでくる。
  兄はお前を愛してた。父もお前を愛してた。
  父を愛してた。母を大事にして愛してた父を心から尊敬していた。
  母の悪口など一度も聞かなかった。
  母ののろけならたくさん聞いたけれど、その顔が幸せそうだった。
  母のような女性と結婚したい。嘘じゃなくそう感じた。
  幼稚園の頃、小さな礼拝堂にあった聖母マリア像を見て、これがきっと理想の女性のひな形なのだと信じ込んだ。

 そんな回想をしながら、せっせと手は遺品の整頓をしていた。
  この家も売り払う必要がある。
  金は雪狐に全部やろう。弟は稼ぐ手段が何もない。
  母親の母子手帳を発見して、興味半分で開くと、中から手紙が落ちてくる。
  そっと開いてみた。
  期待もあった。どんな母だったか知りたくて。
  本当に愛されてたのか知りたくて。

 黒狸へ

 お母さんですよ。
  この手紙はあなたが1歳の誕生日を迎えたときに書いています。
  あなたはこの前栗のジャムを食べたくて冷蔵庫の扉を開けられるようになりました。
  少しずつ大きくなっていく黒狸に喜びを感じています。
  お母さんね、この手紙をあなたが親になる頃に渡そうと思っているの。
  その頃のあなたは今ほど素直じゃあないかもしれないし、いい意味で年をとっていると思う。
  でも心配しないで。全部順調だから。
  あなたはあなたのまま、少しずつ前進しているから。
  お母さんもあなたを産むまではわからなかったことが多いのよ。
  子供を産んだら死ぬ身体って言われていたけれど、一人目のあなたはこんなに元気だし、もう一人欲しいわって思うくらい。
  黒狸、あなたを産んでよかったと感じている。
  愛しています。
  あなたもきっと自分の子供を産んでもらえばわかるわ。
  あなたも愛する人を見つけたらきっとわかるはず。
  こんなにも愛されて、支えられていたってことを。
  そしてあなたが今度は支えて愛する番だと信じています。
  あなたならできますよ。
  お母さんはいつでもあなたの味方です。
  あなたのことを信じています。
  がんばれ。

 母より

 

 

 そうは思えないという感情と、そうなのかもしれないねという理性。
  母の言葉を信じられない。でも信じたい。
  ろくでなしの息子でごめんなさいと謝ったら母は嘆くだろうか。
  何も反省しない息子のままでも母は嘆くだろうか。
  母が見ているとしたら今の自分になんと言うだろうか。
  母の言葉を受け取ることができなくて、母に愛されてることだけは十分伝わってきて。
  疲れた顔をして、手紙をたたんだ。
  死んだような能面顔でそれを母子手帳に直した。遺品始末のほうにやろうとして、捨てられずにとっておくほうに回した。
  雪狐は母親からのメッセージさえもらえなかったんだ。
  雪狐は母親の記憶さえないんだ。
  捨てられるわけもなかった。親の気持ちを粗末に扱う子供になりたくなかった。

(父よ、母よ。見ていてください。
  俺は何もあなたたちの愛に応えられなかった。
  だけど、弟を愛してる。
  この先ずっと口を聞いてもらえなくても弟を守ると誓います。
  この先誰も愛することができなくても、弟だけは守ります。
  俺が死んでも弟だけは生きていけるようにします。
  母さんが残した愛だから。父さんが愛した弟だから。
  ここにろくでなしの兄を入れてもいいでしょうか。家族の肖像に。
  理想的な父と、愛しい母と、可愛い弟と並べて、この俺を。)