37 アマリネ登場
遺品の整頓から帰ってきたら、思わぬ来訪者に驚いた。
夕方になろうとしていたのに、アマリネはずっと黒狸の家の前で待っていたようだ。
「久しぶり」
「ええ、そうね。あまり会いたくはなかったけれど」
「何の用事だ? リネから来るなんて明日は雪でも降るんじゃね?」
扉を開けて招き入れ、インスタントコーヒーを入れる。
「何。この殺風景な家。しかも水で溶いたインスタントコーヒー」
「ヤカンがない」
「無駄口はいらないわ。キリシュくんどうするつもり?」
今日、父の遺品を整頓してきた。
言ったって仕方がないことだが、誰かの身の上話を全部整理できる脳みそじゃなかった。
「リネのところにいるのか?」
「お世話を放棄した人には教えられないわね。任せても平気なのかしら?」
「任せて平気に見える?」
見えないと言ってくれ。今いっぱいいっぱいだ。
自分のことでいっぱいだ。
何も見えない。見たくても見えない。
これ以上何も聞きたくない。
叱責の言葉はいらない。
嘲りは要らない。
帰れ。この疲れ果てた自分を傷つけずに帰ってくれ。
「いいえ。あんたみたいな小悪党に任せる気なんてないけれど、でも私も私でずっと宙ぶらりんにしとくわけにはいかないのよ。キリシュくんが最終的に決めるにしろ、あんたはどうするか聞きにきたの」
「キリシュがどうかじゃない」
少し苛つきを含んだ声で黒狸は言いきった。
「俺の問題だ」
今自分はいっぱいいっぱいだ。
「そうよあんたの問題だから」
アマリネの異能はDr.スキャンという感情を読む異能だ。
彼女のスキャナーには今どれほどの黒狸の感情が映っているのだろう。彼女は眉をひそめることも、同情することもせずに、ただただ、小悪党を叱りにきたらすごく疲れてて、何故か可哀想になった。みたいな目をしてた。
「俺が人を傷つけるのなんて今に始まったことじゃないけれど今回は取り返しがつかないレベルだった」
「そうね。それでどうするの?」
「もう傷つけたくない」
「わかった。呆れてるけど、あんたは逃げていいわよ」
「そっちのほうが幸せになる」
「あんたはね。あっちは不幸にならないってだけで幸せにもならないわよ。あんたが逃げたせいで」
手に持っていた遺品を地面に置いた。
心の重さも限界だった。アマリネにまとめて投げつけたい!
「この前お父さん死んだ」
「そう」
「その前幼なじみの蝶恋を殺すように言われた」
「そう」
「殺さなかったけど、でも声を奪った。歌がすべての女から」
「そう」
「エルムもなんか傷ついてるけれど怖くて聞けない」
「エルム? うん、それで」
「キリシュも愛想つかした」
「そうね」
「俺は何ができたんだろう」
ご立派なリリーザ先生ならこの答えを知っているだろうか。
今更聞いたところで、何か償いができるわけではないが。
「全然。よくがんばったわよ」
意外なことに、叱責の言葉はこなかった。
ほっとするはずなのに、不安になった。
「俺、まだ何かできたはずだ。リネ、あるだろ。何か俺のよくなかったところ」
「よくがんばったのよ。他が馬鹿にしても笑ってなさいよ、胸はりなさい」
アマリネに胸をどつかれてよろめいた。カウンターにあったコップにぶつかり、シンク側にコップが落ちて割れる音。
アマリネは本当にびっくりした顔をしている。
「リネ、ごめん」
「何腫れ物に触るみたいにびくびくしてんのよ。私はあんたに察してもらわなくても自分で言えるわ」
黒狸の腕をアマリネが掴む。思わずこわばる自分を見て、初めて外界から怯えていたんだと気づいた。
眼鏡から覗くアマリネの目は、まっすぐに黒狸を見つめている。
「自分を責めて安心するのはいいけれど、そこから抜け出せなくなって困るのは誰かしらね」
ああ、ああ、もう泣きたい。
誰かの人妻であるこの女に泣きつきたい。
そう思った瞬間、手は自然とアマリネに伸びていた。
よりかかるように、倒れかかるようにハグをすると。アマリネは動かず受け止めてくれた。
「でもさ、自分がかけた異能のせいで、誰かさんが何の罪もない子を殺して今も苦しんでる。俺のせいだって言うのは簡単だけど、お前だって悪かったって言うのは簡単だけど、そんな単純じゃないんだ」
アマリネの背中にすがるように、指に力がこもった。
「なあ、人を殺して気持ちがいいって気持ちわかるか? 俺わかんない。女犯すのだってねーわって感じるのに、夜になるたびに誰かを犯す夢を見てる。抜け出す方法がわかんない」
もう、どうすればいいかわからない。
「キリシュは……」
「辛かったなら辛かったと言いなさい!」
アマリネに怒鳴られて、その声が悲しみを含んでいることになんだか安堵した。
「よくやったのよ。あんたはよくやったの。誰もあんたよりうまくやれた人なんていないわよ。仮にいたとしても、あんたはあんたよ。自信をもてなんて言わないわ。自分を取り戻すのよ。あんたに戻りなさい!」
大げんかした幼なじみに抱きついてて、すごく安堵した。すごくすごく、受け入れられた気がした。
「あんたの感情が全部、もう無理って言ってるわ。あんたの努力が、全力だった時の報われなさで染まってる。だからもう、いいのよ」
アマリネは黒狸の背中をそっと撫でてくれた。
「30歳こえても答えのでないものにぶつかるから、不思議よね」
赤く染まっていた、夕日がかげりだす。
アマリネの背中に回した手をひっこめ、黒狸は項垂れて、顔を手で覆う。
アマリネは手を差し出しかけて止めた。
「帰るわね」
「リネ、ありがとう」
黒狸は心から、アマリネにお礼を言った。
「何よ。なんもしてないわ、愚痴は言ったけれど、それが何?」
「俺、すっげ救われた。潰れるかと思った」
アマリネの顔を見ることができない。
見たら絶対に泣くとわかってるから。
声が震えてる。この寂しい戦いにやっと一人味方を発見できて。
「情けないわね。潰れなかったんだから、立てなおしなさいよ?」
こくりと頷くのが精一杯だった。
「一人だと思わないことよ。夜は一人で歩くな、お嬢さん方もそうだし、孤独な暗殺者も、寂しがりやのマフィアも。みんなで歩きなさいよ。そうすりゃ寂しくないでしょ」
こくりこくりと頷いた。
アマリネは帰った。黒狸はばらばらになりかけた自分が、やっとこさ形を留めていることに気づいた。
|