38 つながる

「黒狸さん、今日はちょっとだけ顔色がいいですね」
  この戦いは孤独じゃなかった。
  アマリネの言葉を信じてみようと思った翌々日にエルムがそう話しかけてきた。
「そうか?」
「最近死にそうな顔してました」
「死なないけどね」
「そうですよ。仕事が増えちゃいますから」
  すごく気まずい間が開く。
「黒狸さん」
  普段の淡々と事務的で抑揚のない声ではなく、エルムはおしゃべりを楽しむかのように話しかけてくる。
「ここ最近、荒れててすみませんでした」
「いいよ、ずっと俺も迷惑かけっぱなしだったし」
「何か……あったんですか?」
「何かって?」
「黒狸さん、何かに怯えてますよね。気のせいだったらすみません」
  部下に怯えが伝わるほどのびくびく上司だったのか。
  ならばエルムもいつものような軽口が叩けなかっただろう。
「いや、正しいよ。何に怯えてるってわかんないけれど」
「正体がわかったら案外怯えないものです。黒狸さん、愛妻の話しなくなったし、それが関係あるのかなって思ってました」
「まあね」
「うまくいってないことくらいわかってます。私もガタガタでしたから」
「そうか。今はうまくいってる?」
「はい」
  ここでまた、会話が途切れる。
  なんだか久しぶりの会話はうまくいかない。
「黒狸さん、なんもないんですか?」
「心配ないんだろ? うまくいってるみたいだし」
「私でなく……すみません、差し出がましいですね。部下の分際で」
「俺こそ上司の分際でプライベートな相談ばっかしまくりました。すみませんでしたね」
「拗ねてるんですか?」
「拗ねてるように見える? エルムこそ俺のこと気にし過ぎ。俺はもう大丈夫だよ」
  一呼吸置いた。
「一人でも生きていけるし」
  そう覚悟しただけ。
「嘘つき」
「そうですね」
「黒狸さんは寂しがり屋なの知ってます」
「うん。寂しがり屋でエルムにかまってかまってやってた」
「ヴィーラさんのときも、ターゲットが消えて泣いてたじゃないですか。レノリアさんに玉砕した日も、ユンファさんのときも、あなたの心は雨模様でした」
「よく見てるなあ。もちろんキーリのときも雨模様だったけどね」
  そうさ。いつでも心は土砂降りだった。
  愛が落雷のような音を立てて崩壊し、悲しみが肺を満たしてた。
「でももう終わり。キリシュはキリシュで幸せになるよ」
  近くにあったビスケットを口にふくむ。
  数日前まではぱさぱさしてて紙みたいだったのに、僅かな甘味を感じる。
「キーリって、男ですよね?」
「うん」
「キーリさんが男だから黒狸さんは諦めたんですか?」
「だったらとうの昔に終わってるよ」
「黒狸さんがキーリさんを嫌いになったから終わったんですか?」
「好きだよ」
「嫌われたんですか?」
「たぶんまだ好かれてる」
「なんで……」
  言いかけたエルムを振り返ると、エルムが顔をそむける。
  続けてほしいのだが。なんでそこで途切れるのだ。
「おせっかいすぎました。すみません」
「上司のくせに自分のお世話ができなくてすみません」
「縋るんでなく謝る黒狸さんなんておかしいです」
「俺どういう認識なの?」
「あつかましい男ですよ。祥黒狸って、仕事をいつも大量に残して愛妻のところに帰っていくんです。クリスマスに刺された私を年越しまで放置して、愛妻を探しに行っちゃうんです」
  そうだった。厚かましい男だった。
「キーリさんのこと愛してたんでしょ?」
「どうだろう」
「そこはストレートにうんって言っときましょうよ。黒狸さん」
「なー、恋バナの気分じゃないよ。仕事の話しようぜ」
「今まで私のことさんざくら付きあわせたんですからたまには私の話を聞いてください」
「聞きましょう」
  思えば恋バナばかり部下Aにぶつけていた。エルムは少し照れた顔をして、小声で言った。
「付き合ってた人と別れて、黒狸さんも知ってるレムと今交際してます」
  レム。三白眼の金髪ヤンキー野郎のあいつしか浮かばないのだが。
「へー。あれと?」
「うん、あれです」
「あれもあれなわけ? 割りと格好いいのが一匹ってやつ?」
「レムは病気です。恋が肺炎です」
「ああ、あいつこじらせたら厄介そうな性格だよなあ。でも幸せなんだろ?」
「今は。ですね」
「まるで、それまで幸せじゃない扱いを受けたような言い草」
「そんなことありません。レムは全力で私に付き合ってくれましたから」
「あーのろけのろけ。いいねえ、若いもん同士やってくれよ」
「黒狸さん、ちゃんと聞いてくださいね」
「はいはい。くっそう、恋したい」
「らしくなってきましたね。どんどんのろけるから恋に火をつけてください」
「おい、今俺という藁の前でチャッカマンかちかちやってるエルムに見える。燃え尽きるぞ、俺」
「聞け、クソ上司」
「はい」
  恋がしたくなってくる幸せのろけ。
  恋が呪いたくなる幸せのろけ。
  恋したいなあと感じだしはじめるこの心は、正常に戻りつつある。
「エルムレスって偽名ってわかりますよね」
「エルムレスって花の花言葉がひどかった。『孤独を保つ』」
「私もひどいネーミングセンスだったと自覚しています。いいんです、若気の至りですから」
「エルムって響き可愛いけれどもな。それで?」
「本名のほう、花言葉が『信頼』なんです」
「ふうん」
「黒狸さんの異能も、信じるですよね」
「うん、【Believe】」
  そこまで言って、なんか思考が曇った。
  だからすぐに、そんなの嘘だと言いたくなった。
「でも、信じるなんて嘘っぱちだよ。俺は信じたいものをゴリ押ししてるだけ」
「それなんですけれども……誤解しちゃいませんか? 異能を」
「あ? どういうことだ」
「ええと、うん。どういう順序で言おう」
  黒狸はエルムが思考を整頓する間を待った。
「黒狸さんの異能は、信じたものを刷り込むものじゃありません」
「じゃ、何?」
「信じたものを引き寄せるです。だからすごく引きが強い。黒狸さんが信じたことがそのままいいことも悪いことも事実を招くくらい」
「……ネフリータが強姦された日から、ずっと好きになる子が強姦されるのも俺のせい?」
「たぶん」
「エルムさん? あなたは強姦されてないよね?」
「ノーコメントです」
「なんかもう答え言ってるようなもんじゃん。すみません」
「上司の痛いほどの愛はわかってます。それより本題ですけれども……」
  それよりって、それよりってほど軽いネタじゃあないだろう。
  エルムの悩みを聞けなかった上司に対し、エルムは自分が乱暴されたことをあっさりとスルーして本題に入った。
「私、信頼なんて長い間見失ってました。黒狸さんのことも信じちゃいなかったし、レムのことも信じていなかった」
  確かに信頼されてなかった。
  エルムは続ける。
「信じたいと思うたびに、また傷つくのが怖くて、だったらもういらないって自棄になっていました。もう一度信じたいって思った時には信じられなかったのに、今は不思議と信じられます」
  何が? そう聞きたくて。
  聞いたら彼女はどう反応するかわからなかった。
「信じるって、言葉を並べたところで仕方ないんですね。つながるってことに必要なのは、つながってると感じるだけでいいのに」
「エルムさんと俺は今つながってる?」
「いちおう、上司と部下として」
「そうか。俺の愛くるしい部下Aよ、お前の幸せを心から願ってる上司は今すごく嬉しいぞ」
「愛くるしいとか暑苦しいですね。やっぱりしゃべりすぎました。仕事します」
「励ましてくれてるんだろ? エルム」
「いい加減半年近く落ち込んでる上司を見れば、そりゃあ」
「愛してるよー、エルムさん」
「愛の薄利多売」
「俺の愛が満ち溢れてる」
「売れ残ってますね」
「そうだな。売れ残った愛ですが、買いませんこと?」
「キーリさんにまとめて売ればいいじゃあないですか。きっと彼、待ってますよ」
  エルムを愛してると言って誤魔化そうとしたのに、最後の最後でこっちにブーメランがかえってきた。
「そうかもね」
  それ以上言えなかった。