39 I believe

 エルムの待ってますよ、彼。
  という言葉がひっかかる。
  だからといって、どうする気もない。
  アマリネはよくがんばったと言ってくれたし、今は自分でもそう思っている。
  エルムが励ましてくれたのもわかってる。
  あまり覚えていない母が、自分に今も味方してくれていることも知っている。
「信じるってなんだろうな」
  私服のまま、ベッドでごろごろしながら呟いた。
「信じたものを引き寄せるなら、何を信じりゃいいのかわかんねえよ」
  こんな未来を引き寄せたかったのか。そんなわけはない。
  こんな未来を信じていたのか。こうなるかもしれないとどこかで思っていた。
  マリアが居るとずっと信じていたが、ついぞ見つかった試しなどない。
「あーくそ、寝る」
  ふて寝だ、ふて寝だ。
  そう思って布団を被り、目を閉じた。

 

 夢の中で黒狸は子供だった。
  隣に寝ているお母さんが黒狸の頭を撫でてくれた。
  撫でてくれる手が消えて、気づいたらお母さんはマリア像になって転がっていた。
  マリア像を抱っこしたまま、マリアを探してた。

「私、軍学校に進学するの」
  気づけば自分は12歳だった。夕日の照らす教室で、アマリネと二人きりだ。
  初恋の相手だった。大好きだった。
「あんたマフィアっ子でしょ、私は軍人になるから近づかないで」
  父親を馬鹿にされたような気がして、自分を全否定されたような気がして、思わず眉にシワが刻まれる。
「同情で付き合ってやったのに! 調子乗るな!」
  さっとアマリネの顔色が変わった。
「あんたなんか嫌い!」

 このマリアは違った。
  12歳の黒狸は再びマリア像を持って走りだす。

「黒狸くんはぁ、私のこと好きでしょ?」
  14歳の自分。
  この女の子の名前は思い出せない。覚えているのは嫌な記憶。
「嫌いだよ」
「嘘ぉ、付き合ってくれるって言ったもん」
「言ってないよ」
  黒狸は思わずきつい口調で言った
「変な噂撒き散らすなよ。俺は、今でも好きな奴がいるんだ」
  もうそいつは、アマリネは自分のことなんて好きじゃないけれど。

 その少女が傷心と復讐から手首を切る前に、次のマリアを探すために14歳の少年は駈け出した。

「うわ、汚いガキ」
  雪狐が自宅に連れてきた、11歳の蝶恋に15歳の黒狸はそう言った。
  蝶恋がこちらを見て思わず顔をしかめる。
「蝶恋ちゃーん、いつセックスしよう!」
  17歳の黒狸に13歳の蝶恋がまた顔をしかめる。

 これもマリアじゃない。17歳の黒狸は走りだす。

「俺を美容師にしてください」
「帰って。あんたみたいなガキの面倒見る余裕はないの」

 思えばあの美容師のお姉さんよりは蝶恋のほうが美人だった。
  18歳の黒狸は走りだす。

 19歳。
  初めて付き合うことができた。
  アンジェラという名の高校時代の女友達。
  マフィアになったばかりで、仕事に疲れて帰ってきたところ、献身的に世話をしてくれた。
  彼女が好きだった。他愛ないおしゃべりから、情熱的なところも。
「泊めて」
  蝶恋が家出して最初に頼ったのは黒狸だった。
「ワリィ、彼女いるからさ」
  心細い蝶恋を断って、部屋の中に入り、最初に飛んできたのはグーパンチ。
「ふざけんな! 浮気してたのね」
「誤解だ!」

 激しいグーパンチその2。
  ちょっと殴りグセのあるマリアは辛い。19歳の黒狸はまた走りだす。

 もう同い年の女は嫌だ。
  これよりもずっとずっと若い、ストリートチルドレンと清い食事をするだけの交際をしよう。
  誰よりも馬鹿で、誰よりも愛想よく笑って、誰よりも天使で、誰よりも自分を苛つかせないような少女を探すぞ。
  淀んだ自分の理想に叶う少女なんて期待しちゃいなかった。
  ネフリータ=イグナティエ。最初のマリア。
  誰よりも馬鹿で、誰よりも愛想よく笑い、誰よりも天使で、誰よりも自分を苛つかせない、そんな奇跡の少女。
  彼女の髪の毛を洗ってるときが、いっしょに料理を食べてるときが、幸せだった。
「黒狸はいつも口では悪いこと言ってるけど、本当はいいことしてるよ。なんで?」
「なんでだろうね!」
  本当なんでだろうね。リータ、お前にいいところ見せたかったんだ。

 ところがネフリータはどこの者ともわからぬ野盗どもに輪姦されてしまい、黒狸はこの少女に触れることもキスすることもかなわなくなった。
  これでよかった。自分で汚すくらいなら。
  これでいいわけあるか。自分で汚したほうがまだマシだ。

 ぐらぐらした怒りの中で、次のマリアを探そうとして、ネフリータ以外を愛そうと頑張って、普通の花屋を営むミシェルを捕まえる。
  ミシェルに可愛いとたくさん言おう。ミシェルを愛そう。
  ミシェルはいつしかだんだん傲慢になり、ミシェルはだんだん自意識過剰になる。ミシェルの愛がだんだん重たくなってくる。
  もはやミシェルを愛することは無理だった。ミシェルのことを愛そうと思ったが、ミシェルじゃダメだった。
「ごめん、ミシェル。俺には好きな女がいる」
  断りの常套句に蝶恋を出したところ、蝶恋に嫌がらせが始まった。
  黒狸はミシェルと別れてほっとしたと同時に蝶恋に謝りたい気持ちになった。

 ミシェルじゃダメだったよ、お母さん。
  ネフリータもダメなんだ。だってネフリータは傷ついてるから。
  ネフリータを愛してるんだ。だから傷つけたくないんだ。
  ネフリータを愛してるんだ。だから大切にしたいんだ。
  ああ、小さなマリア。小さな、マリア。
  見下ろせば、マリア像に白い涙が浮かんでる。
  これは誰かに汚されたのだろうか。それとも自分が汚したのだろうか。
「お母さん、聖母マリア様、どこに俺のマリアはいるの?」
  このマリアはダメだ。このマリアは小さくて、とても可愛いから。
  汚しちゃいけない。自分が守らなきゃ!

 やがてネフリータが独り立ちした。自分が守ってるつもりで守られてた。彼女の小さな心に、大人の自分が。
  疲れ果てて歩いていると向こうから黒い女が歩いてくる。
「待ちくたびれてましたよ、黒狸さん」
「俺のマリ――」
「仕事ですよ黒狸さん」
  違う。これは黒狸のマリアではなく、愛する部下Aだ。
  なんだか夢の中で我にかえったような瞬間だった。
  そして仕事を受け取ろうとした。
  愛くるしい部下Aは仕事の書類をさっと引っ込める。
「私のことをかまってる暇があったらマリアを探してきてください」
「本気ですか、エルムさん」
「マリアはあっちにいる気がします」
「嘘ですねエルムさん」
「走れ!」
  部下Aに命令されるままにまた走りだす。

 青い髪の……あれはもしや!
  振り返ったのは目鼻立ちのぱっちりした女。ショートボブの青い髪をした人魚。
「ヴィーラさぁああああああああん!」
  飛びついた黒狸にヴィーラはきょとんとする。
「ヴィーラさん! 俺、ヴィーラさんに愛してるってまだ言ってないよ」
  ところが一瞬でヴィーラは泡のように消えてしまう。人魚の伝説と同じように、泡沫になってしまった。
  これこそ、これこそマリア。そう信じていた女性が残滓になった。
  残った泡を口に含んだ。
  ヴィーラ。君が本物のマリアじゃないとしたら、一体誰が……。

 ちらりと、青い髪の影が動いた。
  黒狸は顔を上げる。
「寂しそうな顔してるな。黒狸」
  佇んでるのは、青い髪の男だった。
  明るく笑ってくれるキリシュの後ろに黒い影が蠢く。
  近づくのを躊躇うと、キリシュから近づいてきた。
「俺といっしょに居よう。黒狸、友達だろ」
  黒い影が迫ってくる。これはキリシュなのか、キリシュのフリをした悪魔なのか。
  手元のマリア像を見下ろした。
  手元のマリア像には角が小さく生えていた。
  マリア像……黒狸の理想の女性が隠していた、小さな悪意。
「黒狸」
  キリシュがこちらに笑ってる。だけどこっちに進んでこない。
「俺の悪意ごと、受け取ってくれるだろ?」
「嫌だね」
「俺の悲しみごと受け取ってくれるだろ?」
「嫌だね」
「そうか。じゃあ俺は行くよ」
「待って! キーリ!」
  すがるように抱きつこうとして、マリア像を思わず投げ出す。
  ガシャーン! と後ろでマリア像が割れる音。
  振り返った瞬間、目の前のキーリも霧散した。

 

「マリア、結局見つからなかった」
  今まで恋して女の人たちが走馬灯のように流れた。
  キリシュもいっしょに見えたようだ。しかしあれは男だ。
「みんな愛してたよ」
  今まで誰一人愛してない女性などいなかった。
「愛してたんだ。いつでも目の前の人を真実の愛だと思ってた」
  いつだって真実がそこにあった。
「偽物なんてひとつもなかったよ」
  全部愛してた。全部本物だった。いつだって最高の宝は、その女性だと信じていた。

 ひらひらとハートのかけらが降ってくる。
  黒狸の額に張り付く桜の花びら。
  ごうっと花びらが白い空間に舞った。
  白と薄紅のハートが、黒狸の周りを囲み、大きな花びらの渦を作った。 幻想的だね。そう思ったところで目が覚めた。
  なんもかわっちゃいない。一人ぼっちだ。

「全部作り話さ。こうしてめでたしめでたしなんて」

 また、別の出会いを探そう。目を閉じる。
  やっぱり、そんなのいらない。目を開ける。

「俺がたとえ、キーリの幸せを邪魔する存在だとしても」
  たとえ鳳の命令で自分の命とキリシュを天秤にかけることがこの先あったとしても。
「今すぐ欲しい。キリシュが」
  天井の電球を眺めながら、馬鹿馬鹿しいくらいに恋してる自分。
「抱きしめたい」
  抱きしめた感触だけじゃ生きていけない。
  また抱きしめたい。
「触りたい」
  手でも、髪でも、首でも、なんだっていい。
「キスしたい」
  欲望がエスカレートする。あの唇を奪いたい。
「やっぱ男だし、抱きたい」
  しかしそこから先を想像しようとするとなんだか難しそうで、想像は想像のまま終わった。
「ありえねえと思ってたのになあ。男なんて」
  まったく人生には何が起こるのかわからない。
「まあキリシュが男かって聞かれたらいまだに俺の中じゃ迷子だけど」
  天井に向かって呼びかける。そこに居るのはキリシュじゃない。
「やべ、ひとりごと多くなってきたってことは俺寂しい男じゃん?」
  天井の人工的な灯りは優しく微笑んでいるようにさえ、感じた。
「キリシュが恋しくてひとりごとが増えました」
  やさしく輝く白熱灯。なんだか天使の輪に見えたり。
  やさしく浮かぶ天使の輪。あなたは誰と聞きたくなって。
「誰に向かってしゃべってるんだ? 俺」
  なんとなくそこにお母さんがいたような気がして。
「ねえ、お母さん。俺が男を愛して、子供も産めない奴と結婚したら怒る?」
  光は何も答えない。
「まあ怒ったとしても俺はキリシュがいいや。マリアじゃなくても、キリシュでいい、キリシュがいい。少なくとも今は、そうなんだ」
  光は答えずに、ただそこで優しく笑っているようにさえ感じた。
「迎えにいっていいよね? キーリを」
  光は何も答えず、そこでゆらゆらと揺れていた。
「俺の意思だよ。あいつがいい」
  光は何も答えず、黒狸の答えを促した。
「愛とはって言う前に愛してみるほうが早いよな。信じるとはって考えていたけれど、つながったほうが早いってエルムも言ってた」
  ベッドから立ち上がった。
「じゃ、いってくるよ」
  白熱灯を振り返る。白熱灯は白熱灯でしかない。
  白い光があったような気がして、それがお母さんかマリアだったらよかったのに。
  そう感じたけれど、だけど正直もうなんだってよかった。
  白熱灯は自分のいいカウンセラー役を努めただけなのだから。

 

 ごちゃごちゃ考える前にキリシュの手を握りにいこう。
  そばにいよう、喧嘩しよう、飯つくろう、怒られよう。
  簡単なんだ、つながるってのは日常のそれ全部。
  いっしょに過ごした時間と明日はいっしょに何しよう。これだけ。