08悲しいニュース

 今日一番驚いたことはエルムが俺が出社するのを待たずにスラムの現場に向かったことだ。
  ちょっと待て、いくら車だからといって男がいない状態で一人でブローカー会いにいくのはマズい。麻薬を売ってる人間が自分も常用していないと言えるだろうか。ブローカーが安全だったとしても車から引きずりだされたら犯されるだけじゃすまないぞ。
――黒狸さん、取引無事終了しました。
  午後一番にアホ女部下から電話が入った。札束の入ったトランク持って女が一人車に乗って移動していたら俺なら間違いなくタイヤに穴開けて襲う。男によっちゃ女の体のほうも味わう。下衆だったら証拠が残らないようにその場で殺す。
「急いでスラムを出ろ。タイヤに穴が空いてもアクセルを踏み込め」
「わかってますよ。何焦ってるんですか」
  のんきなのはお前だ。こっちがどれだけ心配しているやら。

 紅龍会前まで車が帰ってくる時間、とてもとても心配だった。だけど帰ってきたらそれより先に怒りに火がつきそうだった。
  何事もなくケロっとした表情で帰ってきたエルムに怒りを殺してこう言った。
「女じゃなかったらこんな勝手なことする部下、殴るところだ」
  本当女だということを自覚してもらいたくてそう言ったら、挑発するような言動がかえってくる。
「性別を理由にするのは女だからって舐められてるのと同じです。ひっぱたきたければご自由にどうぞ」
  心底腹がたったので一発バシンと頬を叩く。勢いで女性を叩いたのは久しぶりだったが、これは自分が悪いとは思わない。
「叩かれたら男と同等に並べると思うな。身体大切にしろ」
  トランクケースの中身を確認して、口座へ金を振り込むために銀行へと向かう。
  エルムは助手席で不満そうな顔をしている。まるで体を気遣うくらいなら休みをもっとくれればいいのにのような表情だ。
  取引が終わるまで無言だったし、その日は帰るまで会話を一切かわさなかった。
  このまま明日も会話できないのはマズいと思って仕事帰りに電話をする。ごめんなさいを言うチャンスを逃したらだめだ。

「マフィアが財布すられてどうするんですか」
  今日ひっぱたいた上司の嘘に呆れ顔でフォローにきた有能部下が、俺のかわりに飲み代の代金を支払う。そうして俺を引き連れて店を出て行く。
  隣を歩くエルムは俺より頭ひとつ分くらい小さい。男とこれだけ身長差があるというだけでも不利なのだろう。俺だったら頭ひとつ分でかい奴が目の前に立つだけで怖い。
「エルムさんすみません」
「財布の中のクレジット、早く手をうったほうがいいと思います」
「ほっぺた痛かった?」
  痛くないはずもないのだが。叩き方は加減し忘れたし。エルムの頬は今も少し赤い。
「あなたの殴り方が下手でむちうちに」
  そういう言い方しかできないと怒る奴もいるぞ。と思いながら、ため息をつく。謝るタイミングは完璧に逃しそうだ。
「叩いたの悪いと思ってないから」
「あっそう」
「まず人を叩いたのが初めてかも」
「軟弱な」
  嘘つきな俺。人を叩いたことくらいけっこうある。蝶恋なんて何回叩いたかわからない。何度ひっぱたかれたかもわからない。エルムを叩きたくて叩いたわけじゃあない。だけど叩いてしまったことに心が痛む。
「あなたが傷ついてどうするんですか。叩かれたの私なのに」
  傷ついたと言うタイミングを奪ったのも俺だった。本当にエルム相手だと距離のとりかたに失敗することが多い。
「自分がやって後悔するかしないかぐらい考えて下さい。人のことは言えませんが」
「わかっちゃいない」
  思わず即答でそう言ってしまった。わかっちゃいない。
「わかっちゃいないと言ってるひとが何がわかっているというんです?」
「わかっちゃいない」
「わかりません」
「たぶん後悔するのはお前のほうだ」
「何を後悔するのか分かりませんね。隠されてばかりですから」
  ネフリータのようになってからじゃ遅いんだ。五人の男に囲まれて犯されて膣を破られて乳首を削ぎ落とされて、生きていただけでも奇跡だが、心に大きな傷が残った。ああなって欲しくないだけなのに。
  壁際を歩いているエルムを塀に押し付けた。
  エルムは怪訝な表情で自分を見上げてくる。キスができない距離じゃあないが、怖がらせるのにキスじゃあ不足すると思った。
  シャツに手をかけて、思い切り左右に引っ張る。ボタンを弾き飛ばすようなこと普段はしないが、なるべく獰猛な感じに。
  エルムはついに乱暴されると思って顔をこわばらせたようだが、それでも弱気になっちゃいけないと表情を変えない。本当にこれが暴漢でなくてよかったなと感じる。
「俺が暴漢ならこれじゃ終わんなかった。法律が強姦魔を重罪にしたあとだったらお前は殺されていた」
  力なくそうとだけ言った。こいつにわからせてやるにはこれ以上のことをしなければいけないらしい。財布からシャツ代にあたりそうな額を引きぬいて、エルムに握らせる。
「弁償。もっと高いシャツだったらあとでまた言って」
  明日あたり辞めるって言われるかもしれない。もし辞めないとしたら、そろそろ危ない。俺が襲うという意味ではなく、エルム自身が仕事で危ない目に遭う可能性が高い。
  見抜く異能の持ち主は自分のことが何もわかっちゃいない。わからないのだろう、人を見る目はあっても自分に価値があることに気付けないのだから。

 翌日。アホ部下は何事もなかったかのように姿を現した。
  シャツ代は新しく請求されることもなく、エルムは珈琲を入れて仕事をいつもどおり始める。
  ニュースでは女の子が殺されたという内容が流れている。年齢を確認すれば18歳じゃあないか。まだ十代かよと思うとげんなりした気持ちになる。シエルロアは弱肉強食だ。
「あれがお前でなくてよかったと思うのが、俺」
  ぽつりとエルムにそう言うと、エルムがぎこちなさそうに体をこわばらせた。
「……お気づかい、どうも」
  小さくぽつりと呟いた彼女に、どこかでどれくらい心配しているかわからせてやらなきゃいけないとそのとき初めて思った。嫌われたとしてもいい、失ったとしてもいい。本当に失う前に、守ってあげたい女性だった。